信仰の良書を読もう! 信仰の良書を読もう!(3)


守部喜雅
元クリスチャン新聞編集長

『キリスト者の標準』

『キリスト者の標準』

ウオッチマン・ニー 著
斉藤 一 訳
B6判、2,415円
いのちのことば社
 標準的なクリスチャン・ライフとは何か? そんな問いかけに、まさに“目からうろこ”の答えを用意してくれているのが本書です。

 使徒パウロは、キリスト者の生き方について「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ二・二〇)と定義しています。

 二十世紀の中国を代表する霊的指導者である著者は、この定義が、単なる理想ではなく、すべてのキリスト者にとって、まさに現実であることを本書の中で、ていねいに、かつ大胆に解き明かしてくれています。それは、読む者にとって、みことばの魅力にふれることであり、魂の飢え渇きが癒やされる体験を得ることでもあります。

 現在は、閉塞感が叫ばれ、キリスト者もその影響を受けていると言われる中、本書は、その閉塞感を打ち砕くだけの力を持っていると言えましょう。

 さて、ウオッチマン・ニー(1903~1972年)とはどんな人物でしょうか。革命前の中国で、「小さき群」という信仰共同体を形成、中国全土に約七万人もの同労者を輩出しました。けれど、時は共産主義政権による迫害の時代、一九五二年に投獄され、二十年に及ぶ獄中生活の末に病死、中国の教会の殉教の歴史にその名を刻みました。

 本書の最後に次のような文章があります。「ああ、自らがむだになることの祝福よ! 主のためにむだになることは、祝福されたことです。……私たちのうちの多くの者は、十二分に用いられてきました。──むしろ用いられすぎているというべきでしょう──が、私たちは、神に対してむだになるということがどんなことか知らないのです。私たちは絶えず動いていることを欲しますが、主はむしろ、時には私たちが牢獄に入ることを望まれるのです」。

 これは自らの獄中生活を予知しただけでなく、この六十年間、中国の教会で起こっているリバイバルが人間の努力や計画ではなく、ただ、神の業であったということを先取りしたような発言であることにも驚かされます。