主よ、どうか希望を与えたまえ ◆絶望感から生まれる希望

高橋 秀典
立川福音自由教会牧師

「私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています」(詩篇42・6)

「今こそ、日本にリバイバルを!」と祈るべきなのかもしれませんが、そのように祈る気にはなれずにいます。それより今は、原発からの放射能漏れのことや被災者の方々の悲しみ、被災地の教会や友人の牧師のことを思いながら、ただ「うなだれ」「うめいている」ことのほうが良いのかもしれません。
私は大震災の直後、心が硬くなって涙も出なくなっていました。危機的状況の中で、牧師としての使命を果たそうと焦るあまり、自分の力で自分の心を律しようとしていました。
しかし、現場の友の牧師の眼差しを通して大震災を見たとき、抑えていた感情が動き出しました。
ローマ人への手紙八章二二~二六節には三重の「うめき」が記されています。第一は、被造物全体のうめきで、それは現在の大震災の悲劇の中で聞こえるものです。私たちは、まず何よりも、被災者の方々のうめきと被災地のすべての生きもののうめきに、心の耳を開いていくべきではないでしょうか。
そして、第二は、御霊の初穂を受けている者たちのうめきです。これは、「嘆きのため息」とも訳せます。私たちは、悲しみや不安にふたをして、自分を守ろうとしますが、御霊は私たちの心が世界の痛みに共鳴して泣くようにと心を解放します。
そしてそのとき、第三の御霊ご自身の「言いようもない深いうめき」(深すぎて、ことばにできないうめき)が起きます。そこから御霊のとりなしによって、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という不思議が始まります。その意味で、現在の悲惨を見ながら、何かの解釈をする代わりに、ただ「おろおろ泣く」ことに、人知を超えた御霊の働きの始まりがあるのではないでしょうか。
詩篇四二篇は、自分の絶望感を主に訴えながら、自分のたましいに向かって、「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる」と閉じられます。私たちはキリストにおいて、ともに泣いてくださる神を見ることができます。そのことのゆえに、私たちは神をなおもほめたたえることができます。そして、その神こそ、「私の顔の救い」であると言われます。
私たちは、神の前に絶望感を訴え、泣いた結果として、神ご自身からの贈り物としての「希望」をいただくことができます。それを通して、「私の顔」にも喜びが見られるようにと、変えていただけるのではないでしょうか。