三浦綾子に出会って 心の中の温かいスペース

熊田 和子
編集ライター

 手元に何冊か、三浦綾子さんからいただいた著書があります。いずれも、表紙を開いてすぐの扉の部分に、綾子さんのお名前か、光世さんとの連名でサインをしてくださっています。いただいたその時々で、サインに添えられたことばも違っています。聖書のことばだったり、さまざまなお礼のことばだったり。筆跡も、光世さんが全部書かれている場合と、綾子さんが書かれているものと、あるいは晩年にいただいた本は、「綾子」の部分だけ、ようやく書いてくださったものと、これもさまざまです。パーキンソン病に罹ってからは、自分のお名前を書くのもやっとで、時間をかけて一生懸命書いてくださっていた情景を思い出します。

 どれだけのエネルギーを使うかを考えれば、こちらから辞退してもよかったのかもしれません。しかし、文字が書ける間は、光世さんは当然のように綾子さんの前に本を差し出していました。綾子さんも素直にペンを持って書き始めていました。

 サインに限らず、こんな光景は何回も目にしました。どうしてこんなに素直に、従順に、自然に従えるのだろうかと思ったものです。それは、従うのでなく、すでに二人のリズムになっているようでもありました。

 もう十五年以上も前ですが、三浦綾子さんと星野富弘さんの対談『銀色のあしあと』の編集に携わった時のことです。綾子さんご夫妻を群馬県東村にお迎えして、私たちスタッフも一緒に地元の宿舎に泊まっていました。夜遅く、ミーティングを終えて部屋に帰ろうとしたら、人気のない廊下を綾子さんが一生懸命歩いているではありませんか。何回も行ったり来たりしています。
 「どうされたのですか?」
 声をかけると、綾子さんは腰につけた万歩計を示して、「歩いてこないと、光世さんが部屋に入れてくれないの」と、宿題を忘れてきた子供のような表情で答えられました。当の光世さんは、そばで励ましているわけでも、見守っているわけでもありません。朝、旭川を二人で出てきて、羽田空港からまた何時間も車に揺られて、ようやく山深い東村に着いたその晩です。なんと厳しいご主人! と思ったのですが、それも光世さんの愛だったのでしょう。「先に休んでいて」と言われた綾子さんは、嬉しそうでさえありました。

 愛する人のことばに従う、その思いに応えることが自分の喜びとなる……そんな思いで光世さんとの四十年を歩んでこられたのでしょうか。とりもなおさずそれは、神さまに忠実に従い、神さまのみむねのままに生きることが綾子さんの喜びであり、生きがいであったことの投影でもありました。

 綾子さんは、神さまを第一にして最後まで歩み通されました。空しさの極地にいた自分を贖いだし、数え切れないほどのすばらしいことをなしてくださった神の救いとキリストの福音を伝えたいと、多くの作品を書いてこられました。その根底にはどれも、神へのほとばしる愛が感じられます。

 そして、自分が第一としている神さまが出会わせてくださった夫、光世さん。自分よりもはるかに神さまに忠実で、思慮深く神に従っている光世さんへの信頼と愛が、いつもにじみ出ているようでした。その姿は、光世さんも常々言われているように、実にいじらしいものでした。

 いまひとつ、記念にといただいた一枚のCDがあります。「結婚三十年のある日に」と題する自主制作で、文字通り結婚三十周年の一九八九年に出されたものです。ここには、童謡や讃美歌など光世さんの朗々たる独唱十曲と、綾子さんの語りで、曲にまつわる思い出が収められています。

 光世さんのすばらしい歌声は何回か拝聴していましたし、これも綾子さんのご自慢でした。お二人は自宅にあるカラオケ・プレーヤーでナツメロを歌うのがお好き、というのはけっこう有名な話です。のみならず、私たち編集者にも歌を所望されるので、旭川をお訪ねする前にはいつも、お風呂でいろいろな歌を練習していたのを懐かしく思い出します。

 食事が終わると、たいてい綾子さんが「光世さん、何か歌って」と始まるのです。お元気な頃は、歌に合わせて綾子さんが自作の「即興の舞」を舞っていました。そして、「一緒に踊りましょう、私について適当に踊ればいいのよ」と、これもたいてい強いられるので、恥ずかしさ半分と、ここを通過しなければ原稿がもらえないのでは? という使命感とで、そろそろと立ち上がるわけです。

 それはともかく、CDの中でも綾子さんは、「今日まで私は、自分の結婚にどれだけ感動してきたかわかりません」と語っておられます。三日でも一緒にいられたらと結婚し、それが四日になり、五日になりして年月を重ねていく中で、加えられていく一日一日が、きっと宝のように大切な日々だったのでしょう。そして、ただ二人が仲良く歩むだけでなく、夫婦で心を合わせ、祈りを合わせて数々の作品を生み出し、それらが人々に生きる勇気を与えてきたのです。綾子さんの中では、相い病む二人がひとつとなって生かされてきたことで、そのような働きを神さまから与えられ続けたことへの感動もあったのではないかと考えます。

 「綾子さんは、書いてこられたことと生きてこられた姿勢がひとつでした」
 葬儀の場で旭川六条教会の芳賀牧師は言われていました。綾子さんを知るだれもが、そのことばに頷けるのではないでしょうか。だからこそ、いつの時代にも変わらないメッセージを発信し続けていけるのでしょう。

 綾子さんが天に召されてもうじき五年。葬儀の翌日私は、数日前にようやくギプスが取れた左足を引きずりながら、懐かしい旭川の街を何度も何度も歩き回りました。すでに頭の中に刻み込まれている道や建物や風景。それらをたどりながら、たくさんの思い出をくださった綾子さんと静かにお別れをしたかったのです。とりわけ、見本林に立った時の深い思いは今も忘れることができません。

 昨年秋、久々に文学館や塩狩峠記念館を訪ねました。そこで働くボランティア、職員の方々、全国から訪れた人たちが記していったノート、もちろん作品の数々。それらの中に、確かに綾子さんは今も生きていました。