一粒のたねから 第9回 「知る」ということの本当の意味

坂岡隆司
社会福祉士。精神保健福祉士。インマヌエル京都伏見教会員。

先日ある学生から、論文作成のためにインタビューをさせてほしいと依頼がありました。テーマは「施設コンフリクト」について、とのこと。
「施設コンフリクト」というのは、簡単に言えば、福祉施設などを建設するときに、地域住民との間に起きる紛争、トラブルのことです。もっと広い意味でも使われることがあるようですが、おもには福祉施設建設時の反対運動などを言います。福祉関係では、残念ながら昔からよく聞く話で、しかも精神障害関係の施設となるとなおさらです。実は、からしだね館も、最初の建設計画のとき、住民の方々の激しい反対にあって、やむなく頓挫したという苦い経験をしています。そんなこともあってか、どうやらその学生は、わざわざ当館に問い合わせて来たようでした。
当時のいきさつはどうだったか。なぜ反対されたのか。何が問題だったのか。熱心に質問してくる学生に答えながら、私はあることに気付きました。それは、その当時私の心の中に渦巻いていた様々な感情や思いが、時間の経過とともにかなり変化してきているということです。

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もう十年ほど昔になりますが、当時、私の心の中にあったものは、反対する人々を責める気持ち、怒り、いら立ちでした。どうして彼らは理解しようとしないのか。それは偏見、差別ではないのか、という義憤のようなものでした。
なぜ彼らは反対するのか。その時の私の理解は、一言でいって「無知」ということでした。というのは、地元の方々は決して福祉に理解がないわけではなく、こういう施設が必要であることには異論はないのです。けれども、自分の家の近くに施設ができることは拒否する。いわゆる「総論賛成・各論反対」というもので、それは結局、病気や障害に対する無知から来るのではないか、と私は考えました。
何度となく開催した説明会でも、建設自体には反対しない、しかし、なぜわざわざこの町内なのか、とよく聞かれました。逆に、どうしてここではだめなのですか、と問うと、こんな答えが返ってくるのでした。「障害者は何をするかわからない」「何かあったら責任を取れるのか」
「それは誤解です。統計を見てもそれは明白です」などと言っても、まったく受け付けてもらえません。話し合いは、いつもそこでストップするのでした。
つまり、障害者に対する正しい理解がない。そのうえ、(当時から問題になってはいましたが)マスコミによる思慮のない犯罪報道。これも、人々の意識に大きな影響を与えていたのでしょう。犯罪報道に精神鑑定の話題や通院歴のことなどが加われば、誰でも不安になり、精神障害者を拒絶します。精神障害者は怖い、となる。
だからこそ、本当のことを知ってもらおう、と私は躍起になりました。しかし、力めば力むほど、話し合いは空回りするばかりです。結局、この最初の計画は失敗に終わりました。
その後、からしだね館は、場所を移した第二次計画によりスタートすることができました。おかげさまでこの七年間、ご近所とは良いお付き合いをさせていただいています。
こうした経験を通して私が悟ったのは、この場合の「知る」というのは、一般論としての障害者知識ではなく、あくまでも個人レベルでの、人と人のつながりやふれあいのことを指すのだということでした。
実際、ある本に、日常的に障害者との個人的な付き合いがなされている地域では、それだけ彼らがコミュニティーに受容されている、という調査報告が紹介されています。(石川信義『心病める人たち』岩波新書/二三二―二三四頁)
知るということ。それも抽象的にではなく、個人的、具体的、日常的に。これが施設コンフリクト解消の大事なポイントではないか。私は学生にそんな話をしたのでした。

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学生は良い話を聞いたと言って帰っていきました。けれども私は何かスッキリしません。どこか話がきれいすぎるのです。
私はあらためて、からしだね館の七年間を振り返り、いろいろな出来事を思い出しました。そしてつくづく実感したのは、知るということはまた、ますますわからなくなることだということです。知るということは、実はわからないということを思い知っていくことでもあります。
そういう意味では、誤解を恐れずに言えば、やはり人はいつだって何をするかわからないものだし、怖い存在です。それでも、受け入れていく。関心をもつ。迎え続ける。それが、人を「知る」ということの本当の意味かもしれません。