一粒のたねから 第9回 「こたえる」ということ

坂岡隆司
社会福祉士。精神保健福祉士。インマヌエル京都伏見教会員。

招待状や案内状を送ったのに返事がない。
締め切りはとっくに過ぎているし、返信葉書まで入れているのに、どういうことなんだろう……。
このような経験は、どなたでもお持ちではないでしょうか。私にもあります。ところが、立場をかえれば自分自身もその相手のようであったことに思い当たるのです。もちろん悪意があるわけでなく、気になりつつも、何かの事情でグズグズしているうちに、結局そのまま放置してしまった、というようなことです。
私たちは特別に興味や関心がないことには、案外平気でこのようなことをやっているのかもしれません。「心ここにあらず」で、誰からも何も言われないので、意識しないまま、すっかり忘れてしまっていることだってあるかもしれません。反対に「心ここにある」とき、私たちの反応はとても敏速です。
こんな話を聞きました。ある会社の社長が、式典の招待状を所属教団の本部へ出したところ、その返事が、社長宛ではなく、彼の所属する教会の牧師宛に送られてきたというのです。その方は苦笑いしながら、「返信があっただけでもましかもしれない」とおっしゃっていました。ちょっと驚きますが、教団という組織の中では、あながちあり得ない話でもないなと思った次第です。

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なぜこんな話をしたかと言いますと、私たちは日常の古雑然とした暮らしの中で、実はひんぱんに神様からの招待状や案内状を受け取っているのではないかと思ったからです。大量の郵便物にまぎれて、そのまま放置して忘れ去る、あるいは見つけ出したとしても、中身をよく確かめもせず、とんちんかんな相手に返信をしている。
もしそんなことをくり返しているとしたら、私たちの人生はどうなってしまうのでしょうか。おそらく「どうなりもしない」のでしょう。あいかわらず忙しく、日常の雑多なことに追われながら終わっていくのでしょう。誰も何も言いません。ならばそれはそれでいいのかもしれません。
からしだね館が、その働きを始めたいきさつを聞かれることがよくあります。転機になるような大きな出来事や、きっかけとなった心打つエピソードを期待されているようで、一応それなりの説明をするのですが、どうもしっくりしません。
言ってしまえば、すべては「たまたま」の連続であって、人間である私の目からは偶然に見える一つひとつのことが絡まりあって、漠然としたビジョンが与えられ、事が始まり、できあがっていったというのが実感です。
藤木正三師の著書に、こんな一節があります。
「『たまたま』を受け止める、『たまたま』を大切にする、そういう『受け止めて、潔く生きる』生き方を、共にいます神は、共にいますゆえに、お求めになるのです」(藤木正三著・復活之キリスト穂高教会発行『真っ直ぐに創造を信じる』九四頁)
私たちの人生の「たまたま」は、実は神と出会っている場所であり、主イエスが弟子たちに「どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい」(マタイ10・11)と言われたことの意味はまさにそれだ、と藤木師は言います。私たちは、自分の人生の全貌も世界の行く末も知りません。ただ、日々の「たまたま」にこたえていくのみです。神様からの「たまたま」という案内状は、色鮮やかに目をひくダイレクトメールや、分厚い事務書類の入った封筒の束の中に、ひっそりとまぎれています。それをちゃんと取り出して、目を通して、あて先を間違えないように、期日までに返信する。そうやって律儀に「たまたま」に「こたえる」ことを通して、私たちの仕事や生活がつくられていく。その総計が人生だ、というわけです。であればこそ、私たちにとって「こたえる」ということは厳粛です。
十年以上壮絶なひきこもり生活を続けていた青年が、からしだね館にやって来ました。厳しい家庭事情やいじめを経験し、病気を発症。就職活動も不戦敗。そんな彼が、たまたま知った就労訓練の場所を足がかりにして、小さな一歩を踏み出したのです。
彼は毎日、任された仕事を黙々として帰って行きます。たった一人そんな青年がいて、後方から「がんばれ、がんばれ」とひそかに応援している自分がいる。それだけで、もう私は、神様の「たまたま」にこたえてきて本当によかったとうれしくなるのです。
福祉の仕事をしていてつくづく思うのは、私たちは「こたえる」ということを、もっと意識して生きるべきだということです。