一粒のたねから  第1回 「かかわる」ということ

坂岡隆司
社会福祉士。精神保健福祉士。インマヌエル京都伏見教会員。

〝よきサマリヤ人”という有名なたとえ話が聖書に出てきます。愛するとは何か、隣人とはだれか、という律法の専門家たちの問いに対し、主イエスはこの〝よきサマリヤ人”のたとえ話をしたうえで、あなたも行って同じようにしなさい、と言われるのです。
強盗に襲われた瀕死の旅人がいて、たまたまそこを通りかかったあるサマリヤ人が、それを見て助けるという話なのですが、ただ、それが尋常な助け方ではありません。とりあえず応急処置をして、宿に連れて行く。さらに、かかった費用も代わりに払うというのです。
このサマリヤ人の前に祭司とレビ人も通りかかったのですが、「彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った」(ルカの福音書10・31)とあります。そんな彼らと比べてこのサマリヤ人はどうか。彼こそ愛の実践者であり、真の隣人である。だれしも、なるほどと思うのではないでしょうか。

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ただ、このサマリヤ人は、どうしてこうも手厚く熱心に行動できたのだろう、というのが、実は私のもう一つの感想でした。彼はどんな人物だったのでしょうか。金持ちだったのか。どんな仕事をしていたのか。家族は? 年齢は?あれこれ考えると、いろんな人物像が浮かんできます。しかし、どんな人物だったにせよ、それで彼のあそこまでの熱心さは説明できません。むしろ、彼はどこにでもいる平凡で目立たない人間だったのではないかと私には思えます。仕事の重荷があったかもしれません。家族の問題に悩み、健康に不安があったかもしれない。そんなごく普通の人が、旅の途中で瀕死の人を見かけたときに、どう思っただろうと考えてしまうのです。
もちろん、ただ事ではないと思ったでしょう。しかし、不安や躊躇はなかったでしょうか。モタモタしているうちに自分も同じ目にあうかもしれないという恐怖を覚えることはなかったでしょうか。私はあったと思います。もしかしたら、えらいところに出くわしたもんだと舌打ちぐらいしたかもしれません。
ただ、彼はとりあえず現場に近づいて行きました。そして、無残な被害者の姿を見て心動かされます。苦しそうな息づかい。傷口から流れる血。腫れあがった目がすがるように彼を見上げます。思わず、彼は腰を落として声をかけます。しっかりしろ、今助けてやるからな―その言葉が自分の口をついて出たのに、自分でも驚きます。しかし、そこから彼の徹底した救助活動が始まりました。最初はそんなつもりはなかったのに。
以上は、イエスさまのたとえ話を読んだ私の想像です。

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長々と聖書のたとえ話に関して述べさせていただきました。実は、私たちがよく言う「かかわり」ということについて考えてみたかったのです。
私は今、精神障がい者の方々を支援する福祉の仕事をしていますが、これもかかわりと言えばかかわりです。もともと私と精神障がい者とのかかわりは、私がある老人ホームで働いていた頃、そこで就労訓練のために若い精神障がい者を受け入れていたことから始まります。病気を抱えて生きる彼らの厳しい現実。社会の偏見や無理解。彼らの苦労を見聞きするにつけ、これはなかなか大変な問題だと気になり始めていました。
そんな時、教会で一つの問題が起こり、その出来事を通して、私はある深刻な問いを投げかけられた気がしました。それは、教会は本当に「人」を大事にしているだろうか、というものです。言葉ではなく行為においてどうか。
それはまた、自分自身への問いかけでもありました。それから私は自分なりに、やるべきことを考え始めました。様々な経緯があり、気がつくと(!)私は今、心病む方々を支援する仕事をしています。
かかわり。それは、神の問いかけに素直に反応することではないでしょうか。その問いは人によって違うものかもしれません。しかし、それに丁寧に向き合っていくうちに、「そんなつもりはなかった」新しい世界に、神は私たちを入れてくださるのではないかと思います。
とは言うものの、「この人はなぜ生まれてこなければならなかったのだろうか」と思うような心痛む事例にも出くわします。救いのないような現実や、それにどんな意味があるのかと思うような出来事があります。
それでもなお、それに付き合い続ける。そのとき何が見えてくるのでしょうか。何がその先にあるのでしょうか。そんなことをこの連載の中で考えていけたらと思っています。どうぞお付き合いください。