ミルトスの木かげで 第18回 契約書でひと騒動

中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。

私の本職は、英語のキリスト教書を日本語に翻訳することだが、ひょんなことから、しばらくの間、版権代理人としての仕事もすることになった。
例えば、日本の出版社がアメリカの出版社から出ている本を邦訳出版したいとする。その場合、版権代理人を通してその本の日本語版権が空いているかを確認し、空いていれば契約条件を交渉して、合意に至れば契約を結ぶ。双方の義務と権利を明記する契約書は、日米の出版社間で交わされるだけでなく、著者と版元、また翻訳者と日本の出版社との間でも交わされる。
アメリカは契約社会なので、いたる所で契約書だの同意書だのにサインさせられ、まずは契約してからでないと仕事は始まらない。一方、日本の場合はちょっと違う。私が初めて翻訳の仕事をしたとき、メールで依頼を受け、だいたいの締め切りを知らされただけで、あとは翻訳料もどんな条件なのかも、何も知らないままに翻訳を始めた。
無事、邦訳書が出版され、書店にも並び、私のところにも見本が送られてきたとき、契約書も同封されていた。そこに記されている契約期間や印税率などを見て、「ほう!私はこういう条件で仕事をしていたのか!」と思ったものだった。実にのんきな話だ。
これは、このA出版社に限ったことではなく、今まで私が手がけてきた仕事はすべて、口約束のみで始まった。口約束のみでも、やると言ったことはお互いに遂行するという、暗黙の信頼があるのだ。そしてこれは、キリスト教出版社だけでなく、一般の出版社でも同じだったし、恐らく出版業界以外でも、似たような感じなのではないかと想像する。
しかし、アメリカではそうはいかない。はじめに契約ありき、である。
先日、アメリカの大手キリスト教出版社Bと、日本の出版社Cの間で交わされる予定の契約書の確認をしていたときのこと。今まで気づかなかったある一行に目が留まった。
邦訳書には、原書のタイトルや著作権表示、版元の情報などを記載するのが一般的だが、その記載に関し、翻訳著作権の表示を原著者の名前で入れるように、という一文があったのだ。なぜ翻訳の著作権保持者が原著者なのか。当然翻訳者であるべきではないのか。
私はこれまで十年あまり翻訳者として仕事をしてきたが、翻訳の著作権はいつも翻訳者である私だった。こんなことは初めてだと思い、早速担当の人に問い合わせると、B社では少し前からこのような記載をすることを、版権取得者に義務づけるようになったのだ、と言う。
それは一体どういうことなのか、翻訳者は自分が翻訳したものに対して著作権を持たないのか、原著者は、翻訳者の断りなしに翻訳文を自由に使用することができるのか?と尋ねると、その通りだ、と言うではないか。それはおかしい。絶対におかしいと思う。
驚いて日本の著作権法について調べてみると、翻訳物は二次著作物であり、翻訳者は二次著作物の著作者として著作権を保持するが、同時に、原著者にも同様の著作権が生じることが分かった。つまり、翻訳物の著作権は、翻訳者と原著者の両方が持つということだ。そこで、B社が翻訳物に対して、原著者の著作権表示を求めることは、妥当なことだと納得した。しかし、だからといって、翻訳者が自分の翻訳物に対する著作権を失うわけではないはずだ。B社の担当者は十分理解していなかったのだろうか。こういう法的なことはややこしくて困る。もし著作権法やベルヌ条約について詳しくご存じの方がおられたら、ぜひご教示願いたい。

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契約のことであたふたしながら、ふと、主が私たちとの間に契約を結ぶとおっしゃったことに思いを馳せた。主が私たちとの間に結んだ契約は、コントラクトではない。カベナントだ。コントラクトとは、自分を守るために相手の権利を制限することだが、カベナントとは、相手を守るために自分の権利を制限すること、と聞いたことがある。
同じ「契約」と訳される概念でも、なんという違いだろう。主は、私たちのためにご自身の権利を制限し、そればかりか、私たちを祝福するという約束のもとにご自身を置いてくださった。さらに、契約によって主が私たちに求められることは、神の益を守るためではなく、すべて私たちのためなのだ。「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである」(創世記17・7)