ミルトスの木かげで 第11回 卒業パーティーのドレス

中村佐知
米国シカゴ在住。心理学博士。翻訳家。単立パークビュー教会員。訳書に『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)『境界線』(地引網出版)『ゲノムと聖書』(NTT出版)『心の刷新を求めて』(あめんどう)ほか。

アメリカの高校には、年度末に「プロム」という行事がある。上級生とそのパートナーだけが参加できる、卒業ダンスパーティーのようなものだ。
女の子は華やかなドレス、男の子はタキシードを着て、馬子にも衣装とばかりにバッチリ決めて参加する。場所は大型体育館だったり、博物館や水族館やクルーズ船などを貸し切ったり。夢のような一大行事だ。うちの次女も今年は高校卒業なので、先週プロムに行ってきた。行くのはいいのだが、そこに至るまでの準備が大変だった。

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娘はインターネットでドレープがきれいなシフォンのドレスを見つけ、喜んでそれを購入した。ところが、いちばん小さいサイズを選んだものの、いざ着てみると丈が二〇センチほど長い。ああ、彼女はおチビさんなのだ。
裾上げが必要だったが、それくらいならできるだろうと思い、私がやることにした。ところがシフォンは、私のように裁縫に慣れていない素人には扱いが難しい。ふわふわの生地なので、多少不格好に縫っても目立つまいと思ったのが甘かった。本人は、カタログの写真どおりのドレープを崩すことなく、丈だけ詰めてほしいと言う。そうしてあげたいのはやまやまだけれど、やってみるとちっともうまくいかない。ドレープが右に寄ったり後ろに集まったり、せっかくのドレスの形が台無しだ。
「これでどう?」「そうじゃなくて。左右で長さが違う」
仕付け糸をはずしてやり直し。
「今度はどう?」「背中に生地が寄ってておかしいよ」
私も娘も、だんだん疲れてくる。希望どおりにいきそうにないのは、誰の目にも明らかになってきた。内心、(裾上げすれば、写真どおりのドレスにならないのは当然でしょう。少しは妥協したらどうなの? こっちだって努力してるのよ!)と思ったが、誰よりもがっかりしているのは本人なのだ。
「もう一度やり直して」 苛立ちが隠しきれない娘のことばに、私もついムッとなる。しかし、待ち針をはずしつつ、心の中で祈った。(神様、私に忍耐をください。娘の苛立ちと失望に、私が寄り添ってあげられますように。彼女がこの現実を受け止めることを学べますように)「あなたの気が済むまで、何度でもやり直すよ。せっかくのプロムだものね。写真のとおりにはならないだろうけど、お母さんもできる限りのことはするよ。可愛い娘のためだもの」「ありがとう。私の背が低いばっかりに、お母さんにも手間かけさせてごめんね」「何言ってるの。謝ることじゃないわよ。おチビさんでも可愛く見えるように、工夫して直しましょう!」そして、二人であれこれ試した結果、当初の予定とはまったく異なる方法で、無事に裾を上げることができた。カタログの写真とは随分違う印象になったが、「オリジナルのドレスになった!」と本人は満足してくれた。
この世の中には、自分の願いどおり、期待どおりにいかないことはたくさんある。何でもすぐに「私には無理」と諦めたくないけれど、自分には動かしようのない現実にぶつかったとき、自分の側を調整し、適応することを学ぶのも大事。それも成熟のうちだ。
そして、子どもがそれを学ぶのは、決して容易ではない。親にとっても、 子どもの目を現実から逸らさせるのでなく、いかにして直面させるのか、そしてそこから学ばせるか、知恵が必要になる。「これが現実なんだから、諦めて受け入れなさい」と、頭ごなしに言いたくなるけれど、願いを手放すときに子どもが感じる痛みに共感してあげないと、「意地悪な親」として、子どもにとっての敵となってしまう。そうなると、子どもは願いがかなわないのは親のせいであるかのように感じ、実際の問題に取り組むかわりに、親に反発するだけになるだろう。子どもの前に立ちはだかるのは、「現実」であって、「親」ではないのだ。むしろ親は、厳しい現実に立ち向かう子どもを、恵みをもって励まし、うまくいかないときには慰めてあげる存在でありたい。そうすれば、子どもは親(究極的には神様)の支えを実感しつつ、困難な状況にも自らチャレンジできるようになるだろう。
ニーバーの祈りにもあるように、子どもたちが、乗り越えるべきものは乗り越え、受け入れるべきものは受け入れるための、知恵と勇気と力と忍耐と想像力を養っていくことができますように……。
神よ、私にお与えください/変えることのできないものを受け入れる平静な心を/変えることのできるものは変える勇気を/そしてそれらを見分ける知恵を(筆者訳)