ドニー・マクラーキン来日記念 謙遜と情熱を身につけた人 主の愛といのちあふれる証し人

高森美和
クワイヤディレクター

 三月にドニー・マクラーキン師と彼が牧会する教会(Perfecting Faith Church)を訪ねた。毎年三月にゴスペル・クワイヤを連れてニューヨークを旅行するのだが、ドニー師を訪ねたのは去年に引き続きこれで二回目になる。今年はツアー後、単独で教会に何度か足を運ぶことができ、彼の牧師としての一面や教会を知ることができた。

 彼の曲は大好きで、昔からよくクワイヤで賛美している。作る曲、そして歌声には主の存在を感じずにはいられない。日本でも多くの人が、その歌声に励まされて救いへと導かれたことだろう。また、彼の証し本『ドニー・マクラーキンストーリー 暗闇から光へ』は、私にとっては励まし以上のメッセージがあった。この本を日本語に訳して日本のみんなに読んでもらおうと、自分で翻訳に挑戦したこともあったほどだ。だから彼に実際に会い、話せたことはとても感謝なことだった。

フレンドリーな人柄

 彼のように多才で有名人、世界各地で用いられている牧師であると、初めて会うこちらは何かしら緊張したり、壁を感じるものだ。しかし彼にはそれがまったくなかった。まさに蕫気さく﨟という表現がぴったりの人物で、とてもフレンドリー。背が高いだけではなく、人柄や器の大きさを感じずにはいられない、とっても気持ちの良い人だった。

 今回、私たち日本人クワイヤは日曜午後三時からの礼拝に出席した。礼拝後、ドニー師は四十人近くもいる私たちをレストランに招待し、夕食をもてなしてくれた。この日のドニー師は朝四時に起床、四つの礼拝やミーティングをこなすというハードなスケジュールで、そうとう疲れていたようだが、私たちと食卓を囲んでくれたのだ。食事している時も、ときどき目がうつろになるほど彼は疲れていた。それにもかかわらず、楽しい話や、片言の日本語で冗談を言うなど、場を和やかに明るく仕切ってくれた。ユーモアと男らしい優しさを備えた人だ。

 何人ものメンバーが「もしかしたらイエス様はこんな方だったのかもしれないね」と言っていた。疲れているにもかかわらず、一緒に写真を撮りたがり押寄せる私たちに少しも嫌な態度を見せない。別れ際にはひとりひとりに、見ているほかの人にもそれが本当に心のこもったものと分かるほどのハグをしてくれた。

会衆への思い

 別の日曜日の礼拝では、賛美タイムの途中からドニー師がリードを始め、祈りとも言えるような賛美のあとに「ここにいる男性諸君、主に自分をもっと変えていただきたいか? そう思う者は特別に今から祈るので、真ん中の通路に出てくるんだ!」という呼びかけになった。そうすると、なんと百人以上の男性が真ん中に出てきて、あっという間に長い行列ができた。

 私は「まさか、この男性たちひとりひとりのために祈るのだろうか? そうしたらすごい時間がかかる。まさか」と思った。しかしその「まさか」だった。ドニー師は講壇から降りてきて、ひとりひとりのために熱く祈り始めたのだ。汗だくになりながら、そして涙を流しながら。祈っても祈っても人は減らない。途中講壇に手をかけ何秒か休んだそのとき、泣きながらあわれみのまなざしで会堂を見渡し会衆を見つめていた。その姿に聖書の中の(マタイ十四章)多くの群集を見て深くあわれみ、群集を癒されたイエス様の姿が重なった。延々と祈りが続き、午後三時から始まる第二礼拝開始三十分前になったところで、その朝の礼拝は終わった。

 次の月曜からは断食して備えていた若者向けの集会が始まった。彼の若者に対する思いは熱い。彼の自伝を読むと、彼は子どものころに虐待され、すさまじい人生を歩んできている。しかし、もうすぐ四十七歳となる今の彼を見ると、そのような過去を微塵にも思わせないほど、若さと喜びと力に満ち溢れている。「この人は確かに主にあって勝利している……圧倒的な勝利者だ!」本を読んで感じたことだが、本人と会ってさらにその確信が持てた。

 そう思わずにはいられないほど、イエス・キリストの命、生きる力強さを感じるのである。彼のメッセージ、歌からも感じることはできるが、何よりも彼の存在、生きざまそのものが、「私たちの主は、今も生きて私たちのうちにおられる」という証しそのものなのではないだろうか。なんという励ましだろう。

 彼のような信仰の先輩が、命がけでイエス様の救いを伝え、愛を押し流しているその姿を見る時、私もそれに続く者となりたい! そう励まされ、また心新たにされる。救い主イエスを愛し、自分の教会を愛し、人々のために本気で祈り、すべての栄光を主に返して賛美し、情熱を持ってみことばを語る。私はそんなドニー・マクラーキン牧師の存在を心の底から主に感謝する。