スポーツミニストリーの挑戦 第12回 勝利を目指して

蔦田聰毅
インマヌエル堺キリスト教会牧師
スポーツネット関西/大阪・主事

もう何年も前の話になりますが、幼稚園や小学校の運動会で「勝敗をつけないために、徒競走ではなく、みんなで手をつないで一斉にゴールテープを切る」ことが話題となり、物議を醸したことがありました。学芸会では、小人の数よりも白雪姫のほうが多い、という珍事が起きたようで。
確かに、運動の勝敗が人間の優劣の判断となるのを避けるために、という理由も全く分からないわけではありません。ただ、普段の勉強ではあまり見せ場がなくても、運動なら活躍の場が……という私のような子どもにとっては、残念な話です。厳しい現実の闘いに疲れた大人たちが、せめて子ども時代には闘わなくてよいように、と考えたのかもしれませんが、現実の社会で生き抜かなければならない子どもたちを育てるためには、別のやり方があるのではないかと、個人的には思いました。
教会の中でも、勝負にこだわるという姿勢に対して否定的な見解を聞かないこともありません。
クリスチャンだと証しする選手が、試合中にファールを犯したり、判定に不服を唱えたり、感情を露わにしたりするのを見ると、「えっ、あの人クリスチャンって言ってなかった?」とがっかりしたり、非難したり。
日曜礼拝と部活の問題でも、困ることが最初から分かっているんだから、さっさと「献げなさい(=日曜日に練習のある部活は諦めなさい)」という姿勢。もちろん、部活動の選択時に、神第一、信仰優先を学ぶことは益でしょう。でも、多くの子どもたちは(たとえ牧師の子でも!)教会に行きたくなくて、あえて日曜日に練習のある部活を選んでいるわけではなく、彼らなりに葛藤しているのです。
私自身は、中学時代に部活を優先して失敗した痛い経験、高校時代では大切な大会を「献げる」ことになって涙した経験、どちらも大切だったと今にして思います。
スポーツで勝負するからには勝ちたい、そのために感情的になりやすいことも事実です。ですが、勝利からも、敗戦からも、学ぶことはたくさんあります。敗者への尊敬や感謝もスポーツの大切な側面です。中には、勝利至上主義の残念なやからがいることもありますが、それらを反面教師として学ぶこともできます。

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ある国際的な宣教団体では、宣教師訓練学校の必須科目として、バレーボールを取り入れています。もちろん「体育」としてでもあるのですが、教師の主眼は、そのときに顕著に現れる生徒たちの性格、特性、宣教師としての適正などを見ることにあります。スポーツに夢中になると、その人の本質が出てきやすいのです。
聖書も、信仰の善き戦いを闘うように教えています。この世にあっては、クリスチャン生活は戦いの連続です。真剣に信仰生活に取り組むほど、戦いは厳しさを増します。失敗も挫折もあり得ます。そんな歩みの中でも、勝利を目指して闘い続け、弱っている仲間に肩を貸して、ともに立ち上がるような、骨太のクリスチャンを育てるために、スポーツミニストリーは大きな可能性を持っています。音楽もスポーツもその他のものも、使い方を間違えると、心を主から遠ざけることにもなりかねません。しかし、正しく用いるなら、主をたたえ、賛美し、自らが信仰に高揚されるために、さらには他の方々に主の素晴らしさをお伝えする道具として、豊かに活かされてゆきます。
相撲の世界でよく使われる「心技体」。最近、うちの近所で生徒を募集しているサッカースクールの広告チラシにも、「サッカーを教えるだけでなく、心技体の成長を目指して」などと書いてありました。世間でもそれらの大切さが言われている中、人間を造られた御方を知っている私たちこそが、本当の意味での「心技体」の健全な成長を与えられるのではないでしょうか。
教会の中で、スポーツミニストリーが正しく受け止められ、有効に活用され、心も体も元気で快活な人々、特に若い方々であふれるような祝福を祈りながら、筆を置きます。一年間、ありがとうございました。

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競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
(Ⅰコリント9・24~25)