キリスト教良書を読む  第8回 No.8『放蕩息子の帰郷』「放蕩」する神』

工藤信夫
医学博士

二冊の本

「待てば海路の日和あり……」
聖書理解・福音理解に核心的な二冊の本が出版された。『放蕩息子の帰郷』(あめんどう)と『「放蕩」する神』(いのちのことば社)である。いずれも放蕩息子をテーマにしたもので、二冊とも従来私たちが耳にしてきた福音理解―つまり、放蕩に身を持ちくずした弟息子が自分には帰るべき家があることに気づき、父の家にたどりつく回心、悔い改めという単なる感傷物語―でなく、福音とは何か、神の本来的な属性(性質・特質)、人間の真の罪は何かを明確にしてくれる画期的な本であると私は思う。

兄の存在

おもしろいことに二冊の本とも、父に反抗し、遠い異国を旅して放蕩に身を持ちくずした弟より、兄の存在に注目する。『放蕩息子の帰郷』では、著者ヘンリ・ナウエンは再三サンクトペテルブルクに足を運び、レンブラントの有名な同名の絵を眺めているうちに、自分は放蕩息子の兄のような存在であったと気づく。『「放蕩」する神』では、この兄の姿を戯曲『アマデウス』にも登場する作曲家サリエリと重ね合わせ、人間の真の罪は何かを明らかにする。
弟タイプのモーツァルトが現れる前まで、サリエリはその天与の才をもって神に仕え、人々に喜びをもたらすために生涯を神にささげる、という聖なる誓いを立てていた。ところがその信仰と信頼は、若き天才の出現によって一変する。サリエリをしのぐ才をもって生まれたモーツァルトの実生活は放蕩そのものであった。婚約者がいるにもかかわらず浮名を流し、放縦自堕落な生活に終始する。それは、聖書の中でずるがしこいヤコブがなぜ神に祝福されたのかといぶかしくなるような、神の不公平さに思えたのだろう。
自らの熱心な信仰、従順、忠誠、正義という代価を払って神の祝福を得ようとしたサリエリは、モーツァルトに対する競争心、嫉妬心により、神への不信、怒りに燃えて叫ぶ。「今この瞬間から、あなたと私は敵同士だ」(五三頁)このサリエリの豹変は、私たちの姿そのものである。私たちは信仰深く、従順に神の御前に正しくあろうとしている中で、いつのまにか競争心が芽生え、人を裁き、見下し、自らの優越を誇っているのである。自分の義をもって神と取り引きし、祝福を手に入れようと、神を手段化しているのが人間の常といってよい。それこそ人間の罪である。しかし、父なる神は、この失われた兄さえも、それがわが子であるというそれだけで、喜んで迎え入れてくれるというのである。
『放蕩息子の帰郷』における次のくだりは感動的である。「私にとって意外だったのは、このわがままな息子が、どちらかといえば利己的な動機から父のもとへ帰ったことである。……父の愛は、息子が家に帰ったことをひたすら歓迎する。完全で、無条件の愛だ。……神は、私たちをその胸に抱きとめる前に、心の純真さを要求したりなさらない。自分の願望のまま生きたため幸せになれずに帰ったとしても、神は迎えてくださる。……また、罪を犯しても願った満足が得られなかったから帰ったとしても、神は迎えてくださる。自分の力で成功できなかったので帰ったとしても、神は受け入れてくださる。神の愛は、私たちが帰って来た理由の説明を一つもお求めにならない。神は私たちが家にいるのを見て喜ばれ、私たちの望むものすべてを与えようと願われる。まさに家にいるという、ただそれだけのために」(八五~八六頁)『「放蕩」する神』の書名にある「放蕩」とは、この神の振る舞いを指す。つまり、向こう見ずに浪費することをいとわず、そうせずにおれないほどに大きくも広く、深いのが神の愛なのである。兄はたしかに父の家にいたが、その心は父の思いとははるか程遠いという意味で、弟と等しく失われた存在なのである。また、イエスが大好きであるにもかかわらず、人々が教会に足を運ばない理由についての言及も興味深い。多少乱暴に言えば、まじめで一見信仰深そうに見える兄的存在が、人々を教会から遠ざけているのではないかと言うのである(第一章参照)。教会に集う人々の示すまじめで敬虔、信仰熱心さの背後に隠れた優越感、裁き、自己正当化という律法主義、道徳主義が、ここでも問題にされているのである。
かつて私は、歴代の名説教者の一人が〝神学校〟をもじって〝偽善者を作り出す所〟と言ったのを旧約聖書の大家から聞いたことがあるが、教会の不振を嘆く前に、キリスト者は自分が兄的信仰に傾いていないかどうか、自分自身の信仰の吟味が必要なのかもしれない。