キリスト教良書を読む  第7回 No.7『改訳新版神に失望したとき』

工藤信夫
医学博士

◆深刻な現実問題
〝神に失望したことのない”人など、存在しないのではないかと私は思う。というのも〝困ったときの神頼み”は、人間の常態と言ってよいほどのものだからである。不治の病に冒されたとき、わが子が窮地に陥ったとき、人生の破綻に瀕したとき、人は神を最後の砦にする。
ところが、今こそ〝神の出番”と思って神にすがるとき、大半は決まって〝神の沈黙”に遭遇する。C・S・ルイスは、目が覚めるような答えや奇蹟は、「回心前か回心直後に与えられるものである。クリスチャン生活が進むにつれ、明確な答えはまずまれにしか与えられなくなる」(二七八頁)と述べているようだが、これは多くのキリスト者の実感ではないだろうか。こうして人は、神に対する失望を深める。

◆ジャーナリズムの視点
私はこれまで何冊かヤンシーの書評を書いたことがあるが、いつもそのテーマのとらえ方に驚嘆かつ、敬服してきた。彼の視点はいつも〝現実”からスタートするゆえに、魅力的であり、臨床的である。私は、彼の視点に大いなる共感、親和性を持ち続けてきた。ゆえに、〝もし彼のようなクリスチャンが日本にいたら、日本人のキリスト教信仰も大いに異なったものになったのではないだろうか”と記したことがある。つまり、彼は初めに教義、神学ありきではなく、初めに人間あり、悩みあり、苦しみありきなのだ。
実際、本書はヨブ記のすぐれた卒論を書きながら、失恋、失職に見舞われて、もう神を信じることができなくなったリチャードという青年の訪問を受けたところからスタートする。ヤンシーは、わかったようでわからない神学的な答えは、この青年の深刻かつ切実な問いになんら答えにならないことを十分知っている。そこで彼は、
1 神はなぜ沈黙されるのか
2 神はなぜ不公平なのか(聖書は一人ひとりのかけがえない大切さを強調する一方、すべての人がイエスの訪問を受けたわけではなく、いやされなかった人も大勢いる)
3 神はなぜ介人されないのか
4 神は(なぜ)隠れておられるのか
などに関して、模索の旅をスタートする。
しかし、ヤンシーはジャーナリストなるがゆえに、その思索は現実的かつ実際的、行動的である。神のいやしを受けたという人、またどんなに祈ってもその祈りの答えのなかった人、神への失望を経験した人々を検証、取材しに歩き回るのである。また、広く先人の書を読み始める。

◆ヤンシーの発見
すると彼はおもしろいことに気づく。以下は、私が本書から汲み取ったいくつかの要点である。

a操作主義の危険
私たちは、石がパンに変えられたらどんなにいいだろうかという願望を持つ存在であり、〝十字架から降りて、私を救ってみよ。そうしたらお前を信じよう”の世界にいると言ってよい。ところが、こうした問題意識をもって聖書を読んでいくとき、ヤンシーは一つの重い事実を発見する。祈りがかなえられ、大いに祝福された人々の結末は、甚だ神に反逆したものになっているという事実である。
早い話がダビデの末路は惨憺たるものであったし、あれほどの多くの箴言を作った知者ソロモンは、史上匹敵する者のない放縦さをもって神を愚弄したという(九四頁)。また、エリヤの奇蹟を見たアハブ王は、イスラエル最高の邪悪な王として負の遺産を残したという(九八頁)。
果てしない願望、欲望をもつ人間にとって、願望充足は必ずしも人を幸福に導かないのかもしれない。おそらく祈りは、そう簡単にかなえられてはいけないのである。

b成熟、知恵、忍耐、練られた品性
キリスト教の世界は〝信仰・希望・愛”というが、ヤンシーはキリスト者の究極の目的は、この神との成熟した関係にあるのではないかということに行きつく。つまり、前述した神の沈黙・不公平・不介入などという事柄は、こうした徳目・品性にたどりつくための神の深い配慮ではないかと言うのである。
確かに私たちは、近道がしたくて仕方がない。しかし、忠誠と呼ぶ最も深い信仰は、石の間から生える草のように、思いもよらない場所で芽を出すし、人間(成長・成熟)にとっては、解決より問題の方が必要である(二七七頁)。また、〝疑いの余地がないところに信仰の余地はない”ように、信仰には不確実性や曖昧さが要求されるとも語る(二七四頁)。子どもでなく……あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するために、失望や耐え忍ぶ信仰の旅は、必要不可欠な要素なのであろう。