キリスト教良書を読む  第4回 No.4『イエスの御名で』

工藤信夫
医学博士

三つの誘惑

いつの時代でも“中年の危機”というのは、人生の分水嶺である。価値観の転換が起こるからである。人はこの危機を経て、より本質的・本来的な人間のあり方、生き方に気づいていく。信仰の世界においても、事は同様であろう。ノートルダム、イェール、ハーバードという有名大学で牧会心理学を講じ、世界的スピリチャリティの指導的立場にあったヘンリ・ナウエンは、五十代半ばに深刻な内面の枯渇状況を経験する。それは心理学用語でいう“燃えつき”に近い状態だったという(『イエスの御名で』二一頁)。
ナウエンの心を占めていた問いとは、「歳を重ねて私はよりイエスに近づいたであろうか」というものであった。それは、彼が人生の前半で勝ち得た世界的な名声、成功などとは別の次元のものだった。そして彼は、主イエス・キリストが宣教の初めに受けたあの悪魔の誘惑こそが、現代人の心を深くむしばみ、人々を深刻な霊的危機に陥れていると気づく。“石をパンに変える”という誘惑に代表される「自分の能力を示す」「人の歓心を買う」「権力を求める」の三つである。
こうしてナウエンはその人生の後半、華々しい活躍の場を去って、ラルシュ共同体という知的障がい者の施設に下りていくことになる。

この本の価値

ナウエンの辿った“階段を下りる”生き方と称される道は、私たちキリスト者にとっても示唆深いものである。というのは、私たちは名目上、一応キリスト者のつもりでいるが、その現実はかつてのナウエン同様、より高く、より強く、より大きくという、拡大志向・上昇志向に身を置いていると言ってよいからである。
イエス・キリストが天から地に下り、いと小さき者に身を隠された方と頭で知っていても、人は神の力を借りてでも、否、神を利用してでも強くなろう、大きくなろうとする存在だからである。
そして驚くことに、この拡大志向はキリスト教の指導者にも及んでいることがあるという。「今日の教会をよく見ると、牧師や司祭の間に、個人主義が浸透しているのを容易に認めることができます。……自分一人でしなければならない……(私は)大勢の人々の心を惹きつける力がなかった、(私は)多くの回心者を生み出すことができなかった」(同書五七頁)と。迎合主義に対する警告である。

戦後のキリスト教とこれからのキリスト教

ところがおもしろいことに『ヘンリー・ナーウェン』(酒井陽介/ドン・ボスコ社)を読むと、ナウエンの存在を発見したのはプロテスタントの牧師、神学校というのだからこの運びは興味深い。「ナーウェンの著作は主としてプロテスタントに人びとによって翻訳されてきた。というのも彼の著作は北アメリカのプロテスタント系神学校で広く教科書として使用されていたからだ。北アメリカで彼の著作に出会った日本のプロテスタントの人びとが、日本の教会に非常に有益な内容だと判断して翻訳を始めた。その後、カトリック系出版社も翻訳を出すようになった」(一七頁)
北米の神学校の教師たちはプロテスタント教会の行き詰まりに気づき、新たな方向をナウエンに見いだしたのだろうか。

私たちの生の励まし

『イエスの御名で』(あめんどう)が訳される前、ナウエンの名は『傷ついた癒し人』(日本キリスト教団出版局)によって、比較的少数者に知られる程度だったと記憶するが、彼はすでにこの本の中で次のような核心的なメッセージを書き送っている。「多くの人は誤った前提の上に人生の基礎を置いているので苦しんでいる。その前提によれば、恐れや孤独、混乱や懐疑はあってはならないのである。しかしこれらの苦しみは、私たち人間の状態に不可欠な傷と理解することによってのみ、創造的に取り扱うことができるのである」(一三一頁)つまり、私たちは、恐れや孤独の解放をキリスト教に求めやすいが、この人生の傷はそう安易に癒されないどころか、この願望充足は逆に、霊性の衰退を招くというのである。自分自身が疲弊、不安とたましいの暗夜を生きたナウエンは、人間が本当の神を愛する子どもとしてのアイデンティティーを回復するためには、むしろ傷ついたり、裂かれたりするなどの無力体験が必要と主張する。
生涯“傷ついた癒し人”として生きたナウエンの生き方は、現実に困難を抱えて生きる私たちに新たな生の導きの光になるにちがいない。というのも、痛みの経験なくしては、癒しもあり得ないからである(九一頁)。