キリスト教史を学んでみよう -2 *(後半)

中村 敏
新潟聖書学院 院長 新潟聖書教会 牧師

本質を見分けるため

 キリスト教史は、私たちが複雑な迷路を通る時の道案内となってくれる。実に多くの人物が登場するが、どんな人物の存在や働きにも、光の部分と影の部分がある。その人の一面だけを見て評価するのでなく、両面を見て正しく評価しなければならない。

 たとえばアフリカで宣教師として伝道し、探検家としても名高いデイビッド・リビングストンがいる。彼の働きをどう評価すべきか。アフリカの人々に尽くした、すばらしい伝道者として評価することもできる。しかしイギリス政府と結びついて、アフリカの植民地化に貢献した側面も否定できない。

 また、キリスト教史には、実に多くの異端や分派が登場する。教理的に正統信仰からはずれているものが「異端」であり、教理的には間違っていないが、教会論やそのほかの違いから分裂したのが「分派」である。キリスト教史を見ると、モンタヌス派、ドナトウス派、アリウス派から今日のエホバの証人に至るまで、多くの異端や分派が存在する。それらを学ぶことによって共通するものを知ったり、今日に至る異端の本質を知ることができ、対応に役立つだろう。

行動へ駆り立てる

 キリスト教史には、私たちの霊的模範ともいうべき人物が多く登場する。彼らは私たちに霊的チャレンジを与え、行動へと駆り立ててくれる。たとえばパウロをはじめとする使徒たちの世界宣教は、聖霊に導かれ、迫害をものともせずに進んでいった。多くの宣教師が彼らのあとにならい、それは今日も続いている。

 アウグスチヌスの生涯を学ぶ時、どんな人をも聖徒とされる神のわざとともに、彼の母モニカの涙に感動するのである。ウエスレーはその生涯を通じて一万回以上の説教を行い、馬に乗って何万キロとなく伝道旅行を行った。はるかに便利な交通手段を持ちながら、伝道のために活用していない私たちに対する大きな挑戦である。

 このようにキリスト教史は、現在の私たちを行動へと駆り立てるのである。