わが父の家には住処(すみか)おほし
北九州・絆の創造の現場から 第4回 クリスマス・冒険の神――安心安全を超えて

奥田 知志
日本バプテスト連盟 東八幡キリスト教会 牧師、NPO法人 北九州ホームレス支援機構理事長/代表

 「安心安全」が盛んに言われる時代となった。「食」をめぐる事態、また凄惨な事件が起こる度に「安心安全の確保」が議論される。「安心安全」と連呼せざるを得ない不安が私たちを覆っている。「不安で危険な町」は確かに困る。「安心安全」は大切なテーマである。しかし、それでもなお「安心安全」に対する懐疑が私の中にはある。

 昨年夏私たちは、福岡市内に新しいホームレス支援施設を開設しようとしていた。福岡市は全国で最もホームレス数が増加している地域であり市内のホームレスは千人を超えようとしていた。しかし、この計画に対して当該地域の住民が猛烈な反対運動を展開。当時地域に配布された署名用紙には次のような文言が書かれていた。「○○校区は、これまで安全、安心のまちづくりに全力で取り組んできました。そんな中、住宅地にタイプの違う人たちが、集団でやってきて一般地域住民として生活します。せっかく築きあげてきた明るく住みやすい街にひびが入り、治安や秩序が乱れるおそれがあります」。「安心安全のまちづくり」とは一体何であったか。そもそもホームレス状態の人々を「タイプの違う人々」と呼び「治安や秩序が乱れる」と決めつけているのは差別である。

 あえて問う。「安心安全はそんなに大事か」。自分たちの「安心安全」を追求する地域社会は、それを守るために出会いのチャンスを自ら閉ざし敵対心に燃え、あるいは無関係を装う。安心も安全も神様が与えて下さった賜物だ。それ故にすべての人に対して備えられて当然だ。つまり「私の安心と安全」を守るために「誰かの安心と安全を無視する」ということにはならないということだ。そもそも人が出会い、共に生きようとする時、その人は多少なりとも自分のスタイルやあり様を変えざるを得なくなり、自らの都合を一部断念せざるを得なくなる。出会いはその意味で「危険」なのだ。愛するとは自分の「安心安全」を十字架にかける瞬間なのだろう。何かと出会い、人は学ぶ。そして新しくされていく。

 「福音」を「良きおとずれ」と言う。しかし、事はそう単純ではない。自分にとって都合のいいニュースを「福音」というならば「みこころ」はどうなるのか。それは十字架抜きの安価な恵みに過ぎない。「福音」とは「みこころ」そのものであり、私に対する神のご計画だ。ゆえに時として私たちには理解できない事態ともなる。モーセは自らが口下手を理由に、エレミヤは若者さを理由に「みこころ」を断わろうとした。「福音」が告げられるとはそのような場面なのだ。「福音」は「新しきおとずれ」なのだ。その時「古い自分は過ぎ去る」(口語訳聖書 ・コリント5章)。私にとってはしんどく「危険」な場面となる。

 作家の灰谷健次郎はこのように語る。「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや、人間が動物と違うところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのやないやろか」(『太陽の子』より)。「いい人」になりたいとは思わない。いやなれない。でもいい人に出会いたい。私と出会ったせいで苦しむ人。そのことを覚悟してなお私と付き合ってくれる誰か。人生においてそんな出会いをすることができたなら私たちは生きていける。

 間もなくクリスマス。アドヴェントは「待降節」と訳されるが原意は「到来」。神様がわざわざ私に出会うために来て下さった日。さらにこの言葉は「アドベンチャー:冒険」と同じ言語からできている。クリスマスはまさに神様が冒険をされた日。私たちへの愛の故、自らの「安心安全」を捨て、ひとり子をこの世に贈られた日。イエス・キリストが、神であることを固守すべきこととは思わず、己を低くして、僕の姿となられた日(ピリピ2章)。聖書によって証しされた「愛」は、現在の「安心安全」に安住していては成立しない。自分が切り崩され十字架に架けられる。本当の愛とはそのような出来事だったのだ。クリスマスは、そのことを私たちに教えてくれている。「安心安全」にしがみつき、どんどん愛から遠ざかっていく現代に生きる私たち。私たちは、クリスマスをどのように迎えることができるか。幸せいっぱいの牧歌的なクリスマスも悪くはない。しかし、少しばかり「冒険」するのもいい。「安心安全」を少しだけ十字架につけイエスに従ってみよう。今世界は、そんなクリスマスを「待望」している。