わが家の小さな食卓から
愛し合う二人のための結婚講座
最終回 学び続ける結婚―変わっていくことができる恵み

大嶋裕香
1973年東京生まれ。宣教団体でキリスト教雑誌の編集、校正を手がける。99年にキリスト者学生会(KGK)主事の夫と結婚後、浦和、神戸、金沢と転々としながら年間100~200名近い学生、卒業生を自宅に迎える。KGKを中心に、夫と共に結婚セミナーで奉仕。その傍ら、自宅でパン教室、料理教室を開き、子どもたちにパン作りを教えている。13歳の娘と10歳の息子の母親。

クリスチャン同士で結婚しても、自動的によい夫婦になるとは限りません。違いのある二つの人格が一つとされ、夫婦となっていく歩みには、絶えざる努力と学びが必要だと思うのです。「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創世2・24)。ここには「ふたりは一体となる」とあり、「一体である」ではありません。「なる」というところに、神様の御手の中で「変わっていける」恵みの約束の響きがあります。
結婚式の誓約の時に二人は夫婦となりますが、同時にその後の時間の中で、夫婦となっていく歩みは続くのです。
私たち夫婦の歩みは、多くの先輩夫婦や後輩夫婦との交わりに助けられてきました。結婚前も結婚後も、結婚に関する学びを続けていくことはとても大切です。
新婚半年の時に、キリスト者学生会卒業生会の結婚セミナーに参加したことは大きな恵みでした。結婚して間もなく、まだまだふわふわと落ち着かない頃でした。自由時間に夫婦で海辺を散歩していると、講師の先生ご夫妻が遠くに見えました。その頃先生方は六十代だったでしょうか。奥様の肩を抱いて、仲睦まじそうに散歩をされているシルエットが実に美しく、一枚の絵画のようでした。「私たちもあんな夫婦になりたい!」心からそう思いました。そして、積極的に結婚セミナーや家族セミナーに参加し、学びを続けるようになりました。
そのうちに、今度は私たちが結婚セミナーの講師を頼まれるようになりました。二か月前も大阪の教会で「結婚式の式次第の意味について」夫が話し、私も結婚生活の証しをしました。質問コーナーもあり、ざっくばらんな楽しい時となりました。
その中で夫婦関係をよりよく保つ方法の一つとして、「愛されことば、悲しみことば」を夫婦で分かち合うとよいですよ、という話をしました。すると、セミナー後に六十歳を過ぎた男性からメールが届きました。「大嶋先生ご夫婦は、新婚の時に毎日、愛されことば、悲しみことばを三つずつ分かち合ったと言っていましたね。それはいいと思って、これから毎日妻と分かち合うことにしました!」とてもうれしそうな文面でした。六十歳を過ぎてからも、変わろうとされる信仰の姿に感動を覚えました。
よい夫婦になっていく秘訣の一つ、それは「変わっていくことができる」という希望だと思います。何歳になったとしても、年下の人の話を聞いて素晴らしいと思ったら、それを取り入れることができる柔軟さ。教えられやすい心。神様からの素晴らしい賜物だと思います。そして、相手を変えようとするのではなく、自分から変わっていこうとする謙虚さ。神様はそのような人に多くの祝福をそそいでくださると信じます。
私が主によって「変わっていくことができる」家庭の恵みを初めて体験したのは、小学一年生の頃でした。母が救われ、一年後に父が救われてから、私の家庭はがらりと変わりました。それまで父と母はあまり仲が良くなく、母は父を大切にしていなかったそうです。タンスの上の段を母が使い、使いにくい下の段を父にあてがったり、夕食でカレイの身を母と私が食べ、その残りの骨を骨せんべいにして、父の夜食に出したり……。
そんな母がイエス様を信じたときに、それまでのことを父に土下座して謝り、タンスの段をすべて入れ替え、父にもカレイの身を用意し、父を大切にするようになりました。父は、母のあまりの変わりように驚き、母を変えた聖書を読むようになって、救われました。
それまで暗かった家庭が明るくなり、しつけに厳しかった母はとても優しくなりました。そして父も信仰を持ってから、会社人間から教会人間になり、明るく、楽しい性格に変わりました。弟と妹が生まれ、家族全員で教会に通うようになりました。その劇的な変化は衝撃でした。幼い私にも分かりました。「イエス様が、この家庭を変えた!」と。
いつからでも今からでも、主に期待し、主のことばに従い悔い改めていくとき、私たちは変わることができるのです。そして自らが変わるとき、伴侶が変わり、家庭が変えられていくのです。そのためには、結婚について学び続けること、周りの方々に助けられ続けていくことが大切ではないでしょうか。
「人が、ひとりでいるのは良くない」(創世3・18)と言われ、神様は男と女を造られました。伴侶の「ふさわしい助け手」となるために。この結婚の素晴らしさは、学んでも学んでも尽きることのない、深い深い恵みの泉です。