わがたましいよ 主をほめたたえよ! 4 「賛美せずにはいられない」 ――弱さのうちに働かれる主

Praise the LORD, O my soul
編集部

 まだまだ寒さの残る三月下旬、長野県の諏訪郡富士見町入笠山には残雪が見られた。静かな環境の中で神と向き合い、十字架の救いを黙想する場をとの願いからこの地に「讃美の家」を建設した声楽家の今仲幸雄先生を訪ねた。

 今回は礼拝賛美のレポートから少し離れ、キリスト者にとっての賛美の意味について、先生のお話を通して考えてみたいと思う。

 音楽伝道者として活躍されている先生の働きの根底にあるのは、何といっても十字架の救いの恵みのすばらしさに対する感動だ。これを本当に経験するとき、神の栄光のために生きよう、神を礼拝しようという思いが自然に出てくる。そして「賛美」とはそのように神をたたえるための一つの方法なのだ。

 例えば「礼拝」という言葉。日本語ではこの一語のみだが、英語ではワーシップ(worship)ともう一つ、アドレーション(adoration)という語がある。これには「熱愛」という意味もある。私たちがイメージする儀式の形で行う「礼拝」ではなく、積極性が強調されているという。

 「十字架の救いを本当に経験したクリスチャンが神を賛美したいと思うのは自然なこと。喜びにあふれて礼拝に出席し、そして賛美も自然に出てくるものなのです」。

 ふつう贈り物にはお返しをしたいと思う。しかしこの神からのプレゼントは、決して私たちがお返しをすることができるようなものではない。物やお金など比べものにならない。だから「ありがとうと言い、そしてあなたはすばらしいと賛美するしかないんですよね」という。

 これはふだん何気なく賛美している私たちが忘れがちな原点なのではないだろうか。儀式中のプログラムの一つとして歌う賛美とはおよそ異なる、本当の賛美の姿のように思う。十字架の価値がわからなければ本当の賛美はできない。その恵みのすばらしさがわかればわかるほど賛美せずにいられなくなるのだ。

 ところで「讃美の家」のヴィジョンは、ご自身が十字架の恵みのすばらしさを体験されたことに密接な関わりがある。一人娘の幸子さんが突然の事故で重度の障害をもつようになった。その悩み苦しみの中で、幸子さんの弱いところにこそイエス様がおられることに気づかされた。十字架上で苦しまれたキリストは私たちの罪の身代わりとして人間の一番弱いところに来てくださった。神様は、最も苦しんだり、痛みを感じているところにこそおられる。そして十字架の救いはそのためにあるのではないか。

「そのことがわかったときに賛美せずにはいられませんでした。それがこの施設を建てようと思ったきっかけです。そして弱さこそが賛美の原点であるということに気づいたのです」と今仲先生は当時を振り返る。

 弱ければ弱いほど神は働いてくださる。そして私たちは弱いからこそ祈る。もし自分で何でもできたら結局祈らなくなるのではないだろうか。祈りを忘れるとき、私たちは十字架の救いの恵みをも忘れる。昨日信仰を持っても、今日捨ててしまえばそれはまったくの無意味。死ぬまで信仰を持続し、救いを自分のものとしていくために祈りは本当に不可欠なのだ。

 そんな思いが込められているのが「讃美の家」の施設の一つ「祈りの家」だ。残雪と静寂の中にあるその建物は、人と神が真摯に向き合うという行為の尊さ、そして荘厳ささえ感じさせた。

 その他、最重度の障害者の方々とともに暮らしたい願いのある「ベテスダの家」、純粋に主をたたえるためだけの賛美チャペルといった施設の完成を目指している。そして「讃美の家」ではどのような方法で神をたたえることができるか、いつもそのことを第一に考えているという。

 ここはもともと何もない森だった。施設ができる前、先生はよくここに来て祈ったという。周囲はみな「本当に大丈夫ですか?」と半信半疑だった。造成途上にある施設を前に「信仰の世界は、目に見えない世界です。何か形があるのはそれしかないということで、制限されてしまうんです。何もない時こそ、夢は広がり、神様はいったい何をなさって下さるかと期待ができるんですよね」と語る穏やかな笑顔が印象的だった。(編集部)