ふり返る祈り 第7回 決められない!?

斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授(牧会カウンセリング他)、同学院教会牧師。

神様、私たちは日々、さまざまな決断をしなければなりません。単純なものから複雑なもの、自分だけに関わることや他のたくさんの人々も関わってくること、後に少なからぬ影響を及ぼす決断もあります。慎重になればなるほど決めることが難しくなります。 誰かほかの人に決めてもらって自分はその責任から逃れたいとも思います。主よ、私に冷静な心を与えてくださり、一体何を決めようとしているのか見定めさせてください。 そして判断材料を吟味し、できる限りあなたの御心を行う決断をすることができますように。すべてのことを信仰をもって成すことができ、あなたにゆだねることができますようにお導きください。

決められないことで悩んだことはありますか。今あなたは迷っていますか。あなたは自分が優柔不断だと思いますか。何事も的確な判断をし、即座に決断を下せる人にあこがれますか。
なぜ決断することを躊躇するのでしょう。自分の決断が誤っていることを恐れるのでしょうか、それとも決断の責任を負うのが怖いのでしょうか。あなたは自分の決断について自信がありません。だから誰かの考えが強く反映することが多いのです。自分で本当によく考え祈った判断であるならば確かにあなた自身の決断です。けれどもあなたは自分で考えて決めるということを避けているのかもしれません。あなたに代わって誰かに決めてほしいと思っています。
あなたは心優しく慎重な人かもしれません。誰も傷つけたくないのです。あなたは人の意見を丁寧に聞くので、それぞれの言い分には正当な理由があることが分かります。どれも正しいのです。だからどちらか一方を選んで一方を切り捨てることはできません。もともと日本人は決断するということが苦手なのかもしれません。日本は個人主義の伝統がありませんから、個人が物事を決めることはあまり優先されてきませんでした。「僕は優柔不断だから……」などと普段日本人がよく使う「優柔不断」という言葉は日本独特のようです。この言葉を十分に表現する英語は見当たりません。日本には昔から、「カミサマの言うとおり……」などとやって決めることがありますね。それは決めるという責任を回避しようとしているように見えます。

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クリスチャンは神様の御心がなるようにと祈ります。けれどもそれは、自分で考える責任を放棄することではありません。神様の御心というものがおみくじのように出たり、コンピューターから出力されるようなら楽ですよね。けれども、どうやら神様の御心というのは、私たちが考えて祈るスペースが含まれているようです。
「使徒の働き」にこんな記事があります(1・21―26)。使徒は主イエスによって十二人が選ばれていましたが、ユダがいなくなり一人欠けてしまいました。それで一人補充するということになったのですが、最終的にはくじを引いて神様の御心を問いました。けれども初めから百二十名全員のくじを引いたのではありません。まず彼らは二人の候補者を選びました。マッテヤとユストです。信仰、人格、経験がよく吟味されたのだと思います。その後にくじを引きました。最終的に人為的な意図が入らないようにしたのでしょう。マッテヤが当たりました。投票にしてもよかったかとも思いますが、優劣つけがたい二人を人間が選ぶという形になれば、後になって人間関係のしこりを残した可能性もあります。マッテヤが選ばれたことについてはいろいろ議論もあるでしょうが、大切なことは、彼らが神の御心を問うときに人為的な作業を怠らなかったということです。十分に考え、祈り、話し合って二人を選び、最終的に神にゆだねたのです。
神様の御心が自動的に分かれば私たちは随分楽になるかもしれません。受験や就職で悩んだとき、教会の進むべき道に悩んだとき、教会堂を建てるべきかどうか決断するとき、占いやクジのように答えが出たら楽でしょう。けれども神様の御心は、あなたに預けられた魂と精神を用いて、考え祈りつつ決断を持つことなのです。そしてそれを神様にゆだねることなのです。後になって自分の決断を修正することもあると思います。それは大切なことです。それも神様の計画の中に含まれています。祈りつつ、神様にゆだねつつ、下した決断を神様は祝福してくださるのです。