これって何が論点?! 第9回 「この教科書を使いなさい」

星出卓也
日本長老教会
西武柳沢キリスト教会牧師。
日本福音同盟(JEA)社会委員会委員、日本キリスト教協議会(NCC)靖国
神社問題委員会委員。

今年三月十四日、文科省がとある自治体の中学公民教科書に対して、育鵬社のものを使うようにという内容の異例の直接是正要求を行いました。この自治体は、沖縄本島から四百キロ離れた日本の最南端、八重山諸島の竹富町です。

Q どうして、そんなことが起こったの?
事の始まりは、二〇一一年八月二十三日です。この日、沖縄県・八重山地区で採用する学校教科書を協議する「八重山採択地区協議会」(会長・玉津克博石垣市教育長)は、教科書を選ぶ規約を二か月前に強引に変更し、選定委員に学校関係者がおらず、不自然な多数決によって、二〇一二年度から使う公民教科書を育鵬社の『新しいみんなの公民』と採択しました。八重山地区を構成する一市二町のうち、石垣市・与那国町の教育委員会はその答申に従いました。しかし、竹富町の教育委員会は、「手順がおかしく、答申にも法的拘束力はない」として、全委員一致で同教科書の採用を否決し、東京書籍の公民教科書を採択します。

Q それぞれが別の教科書を使えばいいのでは?
問題は教科書無償措置法13条4項に、採択地区を構成する市町村の教育委員会は「協議して種目ごとに同一の教科用図書を採択しなければならない」とあることでした。協議結果と異なる教科書を採用するなら、竹富町には教科書の無償化は適用できないとされました。しかし竹富町は、八重山地区内で一致していないのに〝竹富町だけ〟が無償から外されるのは納得できないと反論します。同年九月八日、八重山地区の全教育委員が集まり、公民教科書の採択をめぐって五時間半にもわたる協議を行いました。多数決の結果、採択地区協議会の決定を覆し、一市二町がすべて、東京書籍の公民教科書を採択すると一致したのです。

Q 地区全体で同一の教科書ならOKですよね?
ところが、ここで乗り出してきたのが文科省です。九月十五日、文科省は沖縄県教育長に対して、採択地区協議会の答申に基づき、一致した教科書採択を行うようにと指導します。さらに文科省は、九月八日の協議は無効であり、協議会の答申の決定に従って育鵬社の教科書を採択した石垣市・与那国町を教科書無償の対象とし、これに従わない竹富町は無償の対象から外すとしました。しかしながら、東京書籍の教科書を竹富町に寄贈するという市民運動もあり、竹富町の公民教科書は市民からの寄贈で備えられることになりました。
当時の民主党政権時においては、教科書無償の対象からは外されましたが、それ以上の処罰等は問われなかったのですが、安倍政権となった後の二〇一三年三月一日、義家弘介文科大臣政務官は現地を訪れ、「竹富町は有償教科書を使用している二十数人(の生徒)を歴史上生みだしてしまっている」と述べ、竹富町が三月三十一日までに適切な対応をしなければ法的措置も辞さないとします。実際に竹富町の教科書無償化を妨げたのは文科省にもかかわらず。その後、下村博文文科大臣は同年十一月十五日に、「沖縄県八重山採択地区のように、採択地区内で教科書が一本化できない事態の発生を防止するため」に「教科書無償措置法の改正案」を次期通常国会に提出すると、法的強制力について明言。そして今年三月十四日、文科相は県や地区の教育委員会を飛び越して、竹富町に直々に地区と一致した教科書採択を行うように是正要求を下したのです。国が市町村に対して、直接是正要求するのは初めてのことです。ここでの問題は、「教科書無償措置法違反」のかのように一見装われていますが、国が育鵬社の公民教科書を何としても使わせようとし、学校教育で何を教え、何を教えないかに介入しようとしていることが、この問題の本質です。

Q 育鵬社の教科書は、どんな内容なのですか?
育鵬社の公民教科書は、「新しい歴史教科書をつくる会」から分裂した「日本教育再生機構」主導によるもので、「大日本帝国憲法」を評価し、現憲法はアメリカに押しつけられたもので自主憲法に改正することが望ましいと明言する内容です。「平和主義」の項目では自衛隊活動が多くを占め、「国民主権と天皇」として天皇を大きく取り上げ、基本的人権についても「公共の福祉の制限」と「国民の義務」に大きな比重を置いています。自民党の憲法改正草案が目指す国の在り方が大きく反映されているといえるでしょう。アジア太平洋戦争で日本が行ったことの評価は、戦後も教科書検定によって国がコントロールし続けてきました。それと同じ問題が、今回の竹富町の公民教科書採択に象徴的に現れているのです。八重山諸島は、第二次世界大戦(一九三九~四五年)の沖縄戦において、激しい被害を受けた地域です。戦争の惨禍を経験した人々にとって、国が再び教育の統制を行い、学校教育が軍国教育の場となることを許すことができないという良心が、今回の論争に現れていることを見る必要があるのではないでしょうか。