『ありがとう純子』その後…… [前半]

伸行さんと純子さん
伸行さんと純子さん

●一組の夫婦の死

 山本勝治さん・八重子さん夫妻の一人娘・純子さんが、生後半年の守くんを遺し、二十五歳の若さで天に召されたのは、一九八一年春のことだった。そしてそのわずか一か月後、純子さんの夫・伸行さんも後を追うように亡くなる。

 幸せの絶頂だった二人を相次いで襲った突然の病。しかし病魔と闘い、死と向き合う中で、二人はキリストを信じる者となり、クリスチャンとして天に凱旋した。

 そんな二人の信仰と、彼らのために祈る多くのクリスチャンの姿に、家族も神を信じるようになった。後に勝治さんは、「冬の寒い中、十数名のクリスチャンの方々が、アカの他人である純子の快復のために、真剣に祈っている姿に接して、心がふるえる思いをした」と述懐したそうだ。

 守くんは、勝治さん・八重子さん夫妻の「子」として育てられることになった。その時、勝治さん五十二歳、八重子さん四十七歳。伸行さんの両親も、祖父母の役割を担ってくれた。

●『ありがとう純子』

『ありがとう純子』 八重子さんは、二人の足跡を残すべく、一冊の手記を書き上げた。一九八三年に出版された『ありがとう純子』である。この本は大きな反響を呼び、キリスト教メディアのみならず、一般の新聞等でも紹介され、何度も版を重ねた。

 本が評判を呼ぶ中で、八重子さんのもとには講演やあかしの依頼が数多く寄せられるようになった。たいていは何か月も前からの依頼なのだが、何十回という講演を一回もお断りすることなく、すべて小さい守くんとともに各地に行かれたという。

 守くんは人見知りをしない子で、講演の間も、だれにでも抱かれ、八重子さんの邪魔をすることなく、いつも静かにしていてくれた。一人で座っていられるようになると、前のほうで静かに聞いているようになった。そして小学三年生ぐらいになると、涙を流しながら聞き、自分で『ありがとう純子』を読むようになったという。

●「おばあちゃんだけど、お母さん」

八重子さんと守くん 守くんは小さい時から、勝治さんを「お父さん」、八重子さんを「お母さん」と呼んでいた。もちろん伸行さんや純子さんのこともちゃんと知ったうえでのことである。

 守くんが幼稚園のころ、こんな出来事があった。園の行事で親たちが見守る中、先生の「守くんのお母さんが……」とのことばに、一人の女の子がすっと立ち上がり、「お母さんと違うでしょう。おばあちゃんでしょう」と言ったのである。八重子さんはハッとし、そばにいる親たちも固唾をのんだ。すると、すかさず守くんが立ち上がり、「おばあちゃんだけど、お母さんになってくれているよ」と言い返したのである。先生が「そうですね。守くんにはお母さんですよね」とその場を収め、その後は何事もなかったように進行した。

 純子さんの時同様、八重子さんはPTAの役員も務めた。他のお母さんより世代が上だからと遠慮していても、いつの間にかお母さんたちの輪の中心的存在になっていったという。八重子さんには、そんな毎日が楽しかった。純子さんの時は仕事で忙しく、年に一度の運動会を見に行くのが精いっぱいだった勝治さんも、時間的にも経済的にも余裕ができていたこともあって、幼稚園や学校の行事にはすべて参加した。

 三人は毎週欠かさず礼拝にも通った。教会までは片道一時間半もかかったが、少しも苦にはならなかったという。やがて守くんが中学生になり、学業が忙しくなると、夫妻だけで通うようになったが、守くんも信仰を失うことはなかった。一家の生活は、いつも祈りを基盤に営まれていた。

●山本勝治さんという人

 勝治さんは、純子さんが小学生の時に独立して、塗装工場を営んでいた。

 人一倍仕事熱心、勉強熱心だった勝治さんは、誠実で周囲からの信頼も厚く、会社の業績も順調に伸ばしていた。その仕事の質の高さは「山本さんのところへ頼んだら、管理費がかからない」と得意先に言わしめるほどであった。

 また、他人を喜ばせることを喜びとし、自分が得をしようとすることはなかった。社長であるにもかかわらず無駄に交際費を使うこともなく、赤字の時は自身の貯金から従業員の手当や株主への謝礼を出した。その清廉さには税務署員も驚くほどだったそうだ。

 こんなエピソードもある。塗料の価格が上がり、原価が高くなると、得意先にお願いして塗装料を上げてもらうことがある。普通はここまでだが、勝治さんは原価が下がると、自分からその分の塗装料を下げることを申し出たという。得意先の信頼は絶大なものだった。