「絆」を求めて
――なぜホームレス支援なのか ◆つながりへの決断

吉高 叶
日本バプテスト連盟 栗ヶ沢バプテスト教会牧師

「奥田くん。めしおごったろ。ついておいで」
ちょっと気になっていた新入生の奥田知志くんを、今日こそは「現場」に連れて行こうと、強い調子で誘った。阪急電車で梅田まで出て、さらにJR環状線に乗り換える。
「先輩。ご飯食べに、どこまでいくんですか?」
「まあええから。ついておいで」
そう言って連れて行ったのは、大阪西成区にある日雇い労働者の街「釜ヶ崎」。当時、ぼくたち神学部の学生は関西学院大学の中に「釜ヶ崎自主講座運営委員会」という長ったらしい名前のサークルを作っていて、釜ヶ崎での夜回り活動や越冬活動に取り組んでいた。
釜ヶ崎は、山谷、寿町、笹島などとともに寄せ場の一つ。寄せ場とは、安価な日雇い(使い捨て)労働力の供給市場で、ドヤと呼ばれる簡易宿泊所(当時は「かいこだな」の様相を残していた)の密集地である。そして、ケガや疾病によって働けなくなった労働者たちの囲い込み場としての、さらには墓場(行き倒れ・野たれ死に)としての機能を結果的に負わされてきた街でもある。日本の急激な高度経済成長を、まぎれもなく支えてきた日雇い労働者たちだが、景気が陰るととたんに放り出され、貧困を強いられ、あっという間に路上生活へと追いやられていく。地方の貧しい農村や漁村から、そして閉山が相次いだ炭鉱から、たくさんの労働者が寄せ場に集まってきたが、多くの人々がやがて路上に身を横たえ、ついには独り冷たく死を迎えていった。名を呼ばれることなく、朝を待たずに。
産業や社会の構造。その構造の「底辺」の場所では、「豊かな社会」の残酷な実相と、つながりを断たれた人間の孤独がむき出しになっていた。
そのぬきさしならない場をぼくたちは「現場」と呼び、神学を問い、福音をたずね、教会と宣教を考える基点にした。まるでコンパスの針をそこに打って円を描いていくように。
それは同時に、見失われていく人々と、その人々の存在を失ってしまっている社会や教会の中で、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と言われた主イエスに出会おうとする、若いなりにも青いなりにも懸命な求道の歩みだったと思う。
「吉高先輩。この豊かな国に、なんでこんなところがあるんですか!」
奥田くんは驚き、そして叫んだ。初めてこの街に来たときのぼくがそうであったように。
釜ヶ崎と神学部と教会とをつなげながら、聖書を読み、「言」を聴き、祈りを生み出す。時に激しい議論も起こった。そんな厳しくも豊かな交わりが、それからは奥田くんも加わって続けられていった。
神学部を卒業し、それぞれがそれぞれの教会現場で生きるようになってからも、その作業はそれぞれの仕方で、今も続いている。それぞれの、あの驚きと叫びから、いろんなものが始まり、今もずっとつながっている。
そして、今……。
「無縁社会」におけるホームレス支援。奥田さんたちの活動からの問題提起は、失業や貧困を問いつつも、さらに人と人との「つながり」や「絆」を問い、交わりへの決断を問いかけてくる。つながりを切ろうとするあらゆる作用と、関わりを避けようとするあらゆる言い訳の中で、共にいること、共に生きることへの決断を呼びかけてくれている。自らがそれを決断しながら。