「二人」を生きる関係 第4回 一人の限界


近藤由美

 社会人一年生の人が、職場で、慣れない仕事をうまくこなせず、「私なんて……」と自分の不甲斐なさを嘆いたとしても、それはあまり同情の余地はないでしょう。むしろ自分の不得手な分野を知ることが一年目の重要な務めの一つかもしれません。しかし、それが何年か過ぎてとなると、少し事情は変わってきます。

 自分が原因で弁解の余地がないほどの失敗を招いたり、自信をもってやり遂げた仕事が、周りから評価されない経験……をすると、プライドが切り崩され、就職前に思い描いていたビジョンや使命などというものは簡単に吹っ飛んでしまうということになります。価値観や能力、成育歴、信仰が異なる集団の中で、人間関係を築きながら仕事をする難しさに直面し、多少の努力では求められる能力にはおよそ到達できない現実に、自分の実力を、否定的な角度から嫌というほどに知らされ、限界を突きつけられます。

 容赦のない手厳しい批判にさらされて、屈辱感と共にそれまで味わったことのない劣等感にたたきのめされて、「私なんて……」と内にこもり、タラントを地に埋めてしまうこともできますが、少し視点を変えるなら、このような時にこそ気づかなければならない大切なことがそこにはあるのです。

 一つは、神さまが与えてくださった自分の能力が何かを、自分自身責任をもって知らなければならないという事実です。失敗をしたからといって賜物がないことの証明がなされたのではなく、賜物が芽を出し始めた結果の失敗ということも多いのです。もう一つは、直面している行き詰まりは、他者との協力関係を模索するなら打開の可能性があり、自分の限界ある能力も活かされるかもしれないということです。

 何も一人で完成させる必要はないのです。「私が……」という自意識を捨てれば、新しい道が開けることも多いのです。

 若い時代の挫折の経験は仕事だけに限ったことではありません。祈れば祈るだけ、もっと事態は悪化の一途をたどるということだってあるでしょう。しかしそれは神さまからの特別の贈り物なのです(そのただ中にいる人にとっては、そうは思えないでしょうが)。成功によって得る自己認識は、ともすれば人を高慢に導きますが、挫折を通してのそれは、苦しみを伴いますが、苦しみが人を謙虚にさせる時には、他者の存在への意識や見方を大きく変えます。他者を自分より優れた存在として敬意をはらい、存在に感謝することを体得できるまたとない機会となりうるのです。「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」(ローマ一四・一五)として他者を認め受け入れることを学べたとすれば、「挫折」以上の贈り物はないことに気づくことでしょう。

 豊かな歩みは、自分にはない賜物を持つ他者の存在の素晴らしさを認め必要とするところから開かれていきます。ですから自分にはいろいろな能力・賜物が与えられていて、何でもできると本気で思っている人は、不幸です。潜在能力は、温かな交わりの中で、他者の存在に認められ励まされる時にこそ、遺憾なく発揮され、それらが相互に機能していく時には、ついには山を動かすほどにもなり、しかも賜物は発揮される間に磨かれていくのです。しかし他者を必要と思えない人にとっては、自分だけの豊かさで自己満足して終わるのです。

 そして自分の限界を痛いほど味わっている人は、実は幸せなのです。自分に与えられてはいない幻の賜物を追い求めて時間を浪費する生き方から救われるからです。自分の限界を潔く認めた者だけが、自分に本当に与えられている賜物を見いだすことに邁進し、自覚的に生きることへと導かれていくからです。その時自分にはどうしても越えることのできなかった限界という「境界線」の向こうで、自由に能力を発揮している人が存在することに、うらやむ思いから解放されたすがすがしい視線を送り、「境界線」の向こうにいる人からの助けが与えられる時には、手放しで喜ぶ喜びを経験するのです。ちょうど、被災地に水や食料を届けてくれる人を、ただただ有り難いと思えるように。そしてある日、「境界線」の向こうにいる人の助け手に今度は自分がなっていることに気づかされるのです。自分が賜物としては自覚できなかったものが不思議に用いられて役立ち、その人たちを励ましていることを。

 「一人の限界」を味わい、苦しんだ人は、自分と異なる性と人格を持つ他者を心から必要とし、「一人の異性」を受け入れる準備が整っていると言えるでしょう。しかし何事も自分のペースで好きなようにやりたいと思う人にとっては、他者の存在は、結局のところ突き詰めれば、煩わしくてうっとうしいだけで、他者の存在は自分のペースを乱したり、不安をかきたてるだけの邪魔な存在でしかないのです。残念ながら、結婚の準備ができているとは思えません。

 人格から切り離された「賜物」が求められる時、それは利己的で、利用されたにすぎないという思いは、人を深く傷つけます。豊かな賜物としての存在に感謝と敬意を払うところからしか結婚はスタートできません。してはならないのです。