「ダビデの子」イエス・キリスト 第4回 「ダビデの歌」

三浦譲
日本長老教会横浜山手キリスト教会牧師、聖書宣教会聖書神学舎教師

ダビデのこと、そして彼とイエス・キリストの関係を理解するに当たって、詩篇は重要です。実に七十三の詩篇がダビデのものとされています。そのうち、十三の詩篇(3、7、18、34、51、52、54、56、57、59、60、63、142篇)に、ダビデにまつわる歴史的出来事を示す表題が付いています。そのほとんどがサムエル記に記された出来事、特にダビデが危機を迎えたときの出来事にかかわります。このように、詩篇はダビデの生涯を記録するサムエル記と密接に結びつきます(特に、Ⅱサムエル22章と詩篇18篇)。

ナラティブ(語り)におけるダビデの心

前回見たとおり、サムエル記や列王記などのナラティブ(語り)において、ダビデの「心」が注目されていました。ダビデは神の心にかなう人(Ⅰサムエル13・14。16・7参照)でした。ダビデがイスラエルの王となった後は、主の宮を建てることが常に彼の心にありました(Ⅰ列王8・17)。そのような思いの中で(Ⅱサムエル7章、Ⅰ列王9・3)、ダビデの心は主の心と一つであった(Ⅰ列王11・4)ということができます。しかし、サムエル記や列王記においては、それ以上詳しいダビデの心の描写は登場しません。そんなとき、彼の歌でもある詩篇がダビデの心を詳しく描き出します。

詩篇(歌)におけるダビデの心

ダビデ自身が、自分の心の中を見つめます。新約聖書においてはダビデが罪を犯したことは取り上げられませんが、旧約聖書のナラティブにはあのバテ・シェバ事件をはじめとして、彼が罪を犯した記事も出てきます。しかし、彼が罪を犯したとしても、その後の彼の心の中には罪の悔い改めがありました。彼は「きよい心」を造ってくださるように(51・10)と神に祈ります。ダビデは、神が自分に対して「砕かれた、悔いた心」(51・7)を求めておられることを学びます。
彼は次のことを知っていました。神は「心の直ぐな人を救われる」(例 7・10)ということ。神は「心の中の真実を語る人」(例 15・2)、「心がきよらかな者」(例 24・4)と共におられるということ。正しい者の心には「神のみおしえ」(37・31)、「英知」(49・3)があるということ。神につく者は「心が誇っていない」(131・1参照)ということ。
敵を前にしても、神の御前に正しく生きようとするダビデには、苦難が伴います。彼の心には「悲しみ」(例 13・2)や「苦しみ」(25・17)がありました。しかし、ダビデは自分の心を強くしてくださる神(例 10・17、27・14)に信頼して(例 27・3、8)、救いを叫び求めます(例 27・7)。
しかしまた、ダビデの心には「喜び」(例えば、13・5)や「感謝」(例 86・12)もありました。彼の心には「すばらしいことば」(45・1)がありました。このように、ダビデは嘆き苦しみ、神に祈り求めますが、最後には神を賛美します。この「嘆き」から「賛美」への心の動きは、一つの詩篇の中においてさえも見いだされます(例 22、28篇)。

詩篇(歌)の中におけるダビデの名

ところで、詩篇本文の中に登場するダビデの名は大切です。ダビデの名は五つの詩篇に見られます(18、78、89、132、144篇)。おもしろいことに、ダビデの名は彼の生涯の特に二つの重要な出来事に関連して登場します。一つはダビデに対する神の選び(78・70、89・20。Ⅰサムエル16章)、もう一つは神が結ばれたダビデとの契約(89・3―4、29―37、132・1―5、10―18。Ⅱサムエル7章)です。そして、このような聖書箇所で「王」、「油そそがれた者」、「(神の)しもべ」ということばが頻繁に用いられるということも、ダビデの歌がやがてのメシヤにおける出来事に関連していくことを予感させます。

イエス・キリストの歌

やがて時を経て、詩篇は十字架上のイエス・キリストの苦しみを言い表します。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15・34。詩篇22・1参照)。苦難の中の義人ダビデの姿がイエス・キリストの姿と重なります。また、詩篇はイエス・キリストの復活をも歌います。「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる」(使徒2・25―28。詩篇16・8―11参照)。この歌では、苦難の中における神への信頼と喜びに満ちたダビデの姿が、イエス・キリストの姿と重なります。
ダビデの悲しみ、苦しみ、そして信仰と喜びは、ただ彼だけのためのものであったのではなく、やがてのメシヤの姿をも指し示していたのです。