「ダビデの子」イエス・キリスト 第3回 「ダビデの心」

三浦譲
日本長老教会横浜山手キリスト教会牧師、聖書宣教会聖書神学舎教師

ダビデ以後の世代の者たちは、ダビデをどう見たのでしょうか。ダビデの子ソロモンは、神に向かって言います。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました」(Ⅰ列王3・6)。後には、そのソロモン自身の生涯がダビデの生涯と比べられながら描写されます。「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった」(Ⅰ列王11・4)。ということは、「ダビデの心は彼の神、主と一つになっていた」ということの裏返しともいえます。
この後、イスラエルの歴代の王たちの生き方がまとめられるときも、「ダビデのようであったのか、そうでなかったのか」と、ダビデの生き方と比べられます(例えば、Ⅰ列王15・3、11、 Ⅱ列王16・2、 18・3、 22・2)。

     *

旧約聖書は、ダビデの「心」に注目します。イスラエルの王として、神がサウルを退け、すでにその心にダビデのことを思っていたとき、サウルは預言者サムエルから告げられていました。「今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる」(Ⅰサムエル13・14)。そして、ダビデが人の目には隠されたようにして油注ぎを受けるとき、主はサムエルに告げました。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16・7)。
ダビデがイスラエルの王となって後、常にその心に一つのことがありました。やがて、ソロモンが神殿を完成させたときのことです。ソロモンは言います。「私の父ダビデは、イスラエルの神、主の名のために宮を建てることをいつも心がけていた」(Ⅰ列王8・17)。
そして、そのソロモンに、主は言われます。「わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある」(Ⅰ列王9・3)。このように、「ダビデの心と主の心が一つである」ことの頂点としての出来事がダビデの願った神殿建設であり、そういう意味においては、「神殿」において、ダビデの心と主の心が全く一つになったともいえると思います。
ですから、ダビデの生涯が記されたサムエル記においては、やはりダビデが主のために神殿建設を願ったということ(Ⅱサムエル7章)が彼の生涯のクライマックスといえるでしょう。サムエル記との並行記事が見られる歴代誌は、ダビデが大切にしたことを、サムエル記とは違った視点で示します。歴代誌においては、ダビデ自身が神殿を建てられなかったとしても、彼が神殿建設の準備のために労を惜しまなかった姿(Ⅰ歴代22章)を、また礼拝を整えた姿(Ⅱ歴代8・14、23・18、29・25―30、35・4)を描くのです。そして注目すべきは、ダビデが神殿建設を主に願ったときに、逆に主のほうから「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる」(Ⅱサムエル7・12)と、ダビデの子孫からメシヤが、そしてその王国が誕生するという神の約束が与えられたことです。主の心とダビデの心が一つになりながら、将来における大切な約束が主からダビデに与えられます。

     *

やがて、新約聖書において、イエス・キリストの出現を語るときにパウロが言います。「このダビデについてあかしして、こう言われました。『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。』神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました」(使徒13・22―23)。やはり、ダビデの心が主の心と一つであったことが強調されます。ダビデは「神のこころを余すところなく実行する」と言われるのですが、この姿はイザヤ書でただ一度だけ「油そそがれた者」(「メシヤ」/「キリスト」)と呼ばれたペルシヤの王クロス(イザヤ45・1)をも想起させます(イザヤ44・28)。神の「こころを余すところなく実行する」ダビデの姿は、イスラエルの民に対するバビロン捕囚からの解放者クロスの姿とも重なります。けれども、最終的に、クロスのような解放者でありながら、しかし力ではなく苦難を通して人の救いを全うする将来の「苦難のしもべ」、すなわちイエスの姿とも重なっているのかもしれません。