「ダビデの子」イエス・キリスト 第10回 少しの挑戦と適切な折り合い

三浦譲
日本長老教会横浜山手キリスト教会牧師、聖書宣教会聖書神学舎教師

イエス・キリストは、しばしば、人々の病を癒やす文脈で「ダビデの子」と呼ばれます。マルコの福音書とルカの福音書においては、イエス・キリストがエルサレムに到着する前のエリコ辺りで、癒やしを必要とした盲人がキリストに向かって「ダビデの子よ」と叫びます(マルコ10・46―52、ルカ18・35―43)。

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しかし、このたび注目すべきはマタイの福音書です。先ほどのマルコの福音書とルカの福音書に見られた並行箇所はマタイの福音書にも見られます(20・29―34)が、特にマタイの福音書においては、病を癒やすイエス・キリストが頻繁に「ダビデの子」と呼ばれるのです。この点にまつわる話を紹介したいと思います。
マタイの福音書における「病を癒やす『ダビデの子』」

マタイの福音書では、以下の四つの場面において、病を癒やすイエス・キリストが「ダビデの子」と呼ばれます。
(1) 二人の盲人の癒やし(9・27―31)
(2) 悪霊につかれて、目が見えず、口もきけない人の
  癒やし(12・22―23)
(3) カナン人の女の娘の癒やし(15・21―28)
(4) エリコ辺りにおける二人の盲人の癒やし(20・29―34)

ソロモンにまつわるユダヤの伝統(伝説)?
新約学者たちは、このマタイの描く「病を癒やす『ダビデの子』」の姿がどこから来たものなのかを考えます。人々は、なぜ病を癒やす方として、イエスを「ダビデの子」と呼ぶのか。これまで論じられてきたものが、ソロモンにまつわるユダヤの伝統(伝説)に源があるというものでした。なぜなら、例えば、紀元一世紀の歴史家フラウィウス・ヨセフスは『ユダヤ古代誌』で次のように記録するからです。「神がソロモンに悪鬼を追い出す秘技を授けたので、大ぜいの人間が治癒されて恩恵を受けた。……」(8・45秦剛平訳)。
しかし、そのユダヤの伝統(伝説)は、同じ「ダビデの子」であっても、悪魔払い師ソロモンを描いているのであって、病を癒やす「ダビデの子」とは少し違います。

旧約聖書の成就――イザヤ書――

実は、「病を癒やす『ダビデの子』」としてのイエス・キリストの姿こそ、旧約聖書の成就だったのではないかと考えられます。特に二つの書が大切です。まずはイザヤ書です。なぜなら、マタイは、イエスが人々の病を癒やす文脈で二度ほどイザヤ書を引用するからです。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」(マタイ8・14―17におけるイザヤ53・4)。そして、「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。……彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない……」(マタイ12・15―23におけるイザヤ42・1―4)。マタイは、イエス・キリストの癒やしのわざを旧約聖書、特にイザヤ書の成就だと言います(他にも、マタイ11・5におけるイザヤ35・5―6、 61・1参照)。

旧約聖書の成就――エゼキエル書――

次に忘れてはならない書がエゼキエル書です。なぜなら、先ほどの、イエス・キリストに見られるイザヤ書の成就は、さらにエゼキエル書においても預言されていたダビデ的牧者像に結びついていくからです。「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。……」(34・16)。「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる」(34・23)。
先に、マタイの福音書の四つの場面において、病を癒やすイエス・キリストが「ダビデの子」と呼ばれるということを指摘しました。その場面を、エゼキエル書34章を念頭に置いて読んでいくならば、大きな示唆が与えられます。というのも、マタイはその福音書の中で、牧者としてのイエスのあわれみ深さ(12・11―12)を強調するからです。「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」(9・36。20・34参照)。これはエゼキエル34章1―16節を思い起こさせます。

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このように、マタイの描く「病を癒やす『ダビデの子』イエス・キリスト」の姿は、旧約聖書に預言されていた将来のメシヤ、あわれみ深い牧者の姿と一致します。そもそも、マタイは、その福音書の最初からイエス・キリストを牧者のイメージで描きます。「……あなたから支配者になる者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである」(マタイ2・6私訳。ミカ5・2、Ⅱサムエル5・2参照)。マタイはその福音書全体を通して、イエス・キリストをあわれみ深い牧者「ダビデの子」として描くのでした。