結婚 ─ 神の結びあわせたもの 聖書の結婚観はこんなに違う

鷹取 裕成
チャペル こひつじ 七道キリスト教会 プレイズチャペルいずみ 牧師

 何かますます離婚が増えて来ました。現在、役所に四組の婚姻届が出される間に一組の離婚届が出されると言われます。結婚の制度自体が崩れてきつつあります。昔は、結婚は夫の家にはいる嫁入りであり、社会制度的な面が強かったのですが、それが崩れ、好きだから、あるいは自分を幸せにしてくれそうだから結婚する、愛情がなくなったから離婚するといった風潮になっているようです。

 ところで、聖書の結婚観はこの世のものとはなはだしく違っています。結婚は、人間による制度ではなく、神が定められた制度で、神のご意志に基づくものであり、また、実際に男女が結婚するのも神が結び合わせられてそうなるのだというのです。

 聖書の結婚についての考え方は、創世記1―2章にわかりやすく教えられています。神は天地を創造されたときに、人間を男と女に造り、一方だけでは不完全で、両者が結び合って初めて完全になるようにデザインされました。そして、最初に男を造り、その男を見て、「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」(2・18)と言われ、女を造られました。そして、「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(2・24)と宣言されました。そのようにして、結婚というものが定められたのです。

 イエス・キリストはマタイの福音書19章で結婚について話され、「(結婚した男女は)もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(6節)と言われました。このときイエスは先の創世記のみことばを指しておられるのですが、「ふたりではなく、ひとり」だとまで言われるのです。しかし、これは、二人が完全にそうなっているという意味ではありません。神がそうみなしておられるという意味です。男女が結婚して一体になるように定められた神が、結婚した男女を「ひとり」とみなされるというのです。だから、まだしっくりいっていなくても、別れてはいけないし、そうなるように努力しなければならないということなのです。

 「神が結び合わせた」ということは、結婚相手を自分で選んではいけないとか、神が示されるまで待たなければならないという意味ではありません。創世記24章に、アブラハムのしもべが主人の息子イサクの結婚相手を捜す有名な話がありますので、多くのクリスチャンはそれにならうようです。敬虔なそのしもべは、神が定めておられる結婚相手がどの娘か分かるように、自分が水を求めると、その娘が「お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう」と言うようにしてくださいと祈り、その通りになったのです。しかし、聖書全体を見ると、必ずしもそういう超自然的な導きを求めるように命じていません。たしかにそんなふうにして結婚相手が示される方もありますが、へたをすると神を試みることにもなりますし、自分の主体的な責任を放棄することにもなります。

 イエスの時代のユダヤでは、結婚相手は親が決めるものでしたが、それでもイエスは「神が結び合わせた」と言われるのです。イエスは、形や手続きのことではなく、本質のことを言っておられるのです。つまり、神がそのご意志に基づき、すべてのことを働かせて結び合わされたということです。

 だとすれば、私たちは結婚において神のご支配を謙虚に受けとめなければなりません。私たちがいろいろな人に出会うのも、たまたま話が合ったり、逆に難しさを感じたりするのも、偶然ではありません。神のご支配の中で起こっているのです。私たちは神が結婚相手を与えてくださることを信じ、神にゆだね、祈り深くときを待たなければなりません。

 また結婚の目的も違います。この世では、結婚は自分の幸せのためにするものだと考えます。しかし、聖書は、第一に、神の栄光のためにするものだと教えています。「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(Iコリント10・31)。「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです」(ローマ14・8)。また、この世では、結婚は愛し合うためにするものだと考えます。もちろんそうです。しかし、聖書が教える愛は、好きな人を自分のそばにおいておきたい、あるいは、自分だけのものにしたいといった自分中心の愛ではありません。ほんとうの愛は相手を大事だと思う気持ちであって、自分を犠牲にすることさえ厭わないものです。そういう愛はむしろ結婚生活の中で学んで行くものです。

 最後に、結婚が神のご意志に基づくものだということは、神のご意志に沿った結婚には神から特別な祝福があるということでもあります。そこには、平安があり、喜びがあり、慰めがあり、いやしがあるに違いありません。