あの時代、勝海舟はキリストに何を見たのか ◆勝海舟と赤坂教会

姫井 雅夫
日本基督教団赤坂教会 牧師

昨年、NHK大河ドラマ「龍馬伝」が放映され、人気を博した。そこに勝海舟が登場した。
日本の夜明けと言ってもいいようなあの時代と活動に、坂本龍馬とともに勝海舟も大きく関わっていたのだ。

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勝海舟は一八二三(文政六)年に生まれ、一八九九(明治三二)年、七十五歳で亡くなった。十代から剣術をたしなみ、二十歳で蘭学を学んだ。アメリカ司令官ペリーが来航し、一気に政局が混乱した際の「安政の改革」で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。長崎でオランダ人教師カッテンディーケと出会ったことが、海舟をキリスト教と結び付ける大きな契機となった。一八六〇(万延元)年には咸臨丸でアメリカに渡っている。
また、一八六七(慶応三)年に徳川慶喜将軍が大政奉還するが、その翌年、討幕を願う西郷隆盛らと協議し、江戸城を無血開城させている。
さらに、世界に目を向けていた海舟は、伊藤博文らとともにキリシタン禁制に対する「耶蘇教黙許意見」を政府に公にした。これが、一八七一(明治三)年のキリシタン禁制の撤廃へとつながってゆく。勝海舟の広い心が、当時は数少なかった渡米の機会を作り、江戸城の無血開城をもたらし、キリシタン禁制の撤廃をもたらしたと言えるだろう。

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そんな勝海舟の自宅があったのが、東京・赤坂氷川町。当時赤坂は多くの武家屋敷の並んでいた場所で、赤坂御所までも歩いて二十分で行ける。最近まで、政治家たちが接待で使う料亭も多くあった。
一八七八年、東京商法学校(現一橋大学)開設のために来日したウィリアム・ホイットニーは、その勝海舟邸の敷地内に家を建てて、生活を始めたという。
一年あまりでアメリカに帰国することになり、勝家とホイットニー家との交際は短いものだったが、海舟らは多大な感化を受けたようだ。ホイットニー家が帰国していた間に、海舟の娘、孝子と逸子は洗礼を受けている。
それから三年後、ホイットニー家は再来日を果たすが、来日途中、ウィリアムはロンドンで亡くなってしまう。アンナ夫人は、息子ウィリス、娘クララ、アデレードたちとともに勝邸を訪ね、勝の好意によって、以前ウィリアムが建てた家に居を構えることになる。
娘クララは、海舟の三男、梅太郎と結婚し、六人の子どもが与えられた。彼女は「クララの日記」を書き記しており、そこにはホイットニー家と勝家との交流が詳しく記されている。
来日翌年の一八八三(明治一六)年、アンナ夫人が四十九歳で召された。彼女の墓は今も青山墓地にある。
ペンシルバニア大学で医学の学位を得ていた息子ウィリスは、母の葬儀で得た弔慰金で勝海舟から四百坪の土地を購入すると、一八八六年に赤坂病院を建て、病院伝道を始めた。
これが、赤坂教会の始まりとなった。
病院の待合室で聖書の学び会がもたれた。当時の写真を見るとかなりの数の参加者があったようだ。ちなみに、その中に海舟がいたという記録はない。
赤坂病院は、貧しい人への無償診療などのために経済的にひっ迫し、一九二七(昭和二)年、ついに閉鎖される。
しかし、病院の診察室は改装されて礼拝堂となり、宣教と教会の営みは第二次世界大戦を乗り越えて、現在に至っている。
戦時中、一九四五(昭和二〇)年五月二十五日の東京大空襲では、辺り一面焼け野原となった。教会は赤坂の小高い坂の上にあったため、そこから新橋まで見通せたという。教会堂も跡形もなくなっていたが、広瀬衛英・とめ夫妻が、焼け残りの廃材とトタンでバラックを建て、礼拝を守ったという。

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今日の赤坂教会の出発点には、勝海舟がいたのである。
ホイットニー家との深い交友が、海舟がキリスト教により親しく関わりをもつ契機となったことは間違いない。アンナに対して海舟は多大の尊敬を払っており、それがキリスト教に関する憧憬を深くしたようだ。また、カッテンディーケやニーダムといったクリスチャンとの交流があったことも海舟に大きな影響を与えたのだろう。
海舟は最期に信仰告白をする。日本と世界との間に架け橋を設けた海舟の思想の根底に、キリストの福音があったと言えよう。このあたりのことは、新刊『勝海舟 最期の告白』をお読みくださると、よくわかっていただけるであろう。

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赤坂教会の向かいにあった氷川小学校はすでに廃校になり、今は特養老人施設「サンサン赤坂」になっている。
以前あった小学校の記念碑が建っているが、さらに古い記念物は大きなイチョウの木である。その木の横に記念碑が立っている。そこには「勝海舟」のことが書かれている。つまり、その場所に勝海舟邸があったのである。
勝海舟よりさらに長く、赤坂の地で伝道と教会形成を続けている赤坂教会が、日本とアジアへの宣教のために貢献させていただきたいと切に願う。