やめられないとまらない聖書通読 バランスとこだわりと(前半)

通読くん
下川 友也
同盟基督教団 日高キリスト教会牧師

下川 友也

なにごともバランスが大切

 台湾宣教師の香・ハーベッカー先生から、きつい言葉で言われてしまいました。「下川先生、聖書を読む量を半分にして、もっと体力をきたえてください!」と。一九九五年の夏のことです。

 神学校から夏の研修で台湾に送ったひとりの神学生を見て「献身度は抜群、けど体力がない。校長先生から率先して手本を示さなくては……」ということでした。今でもこの苦言は耳に響いています。身体の訓練と、みことばの訓練と、バランスが大切であると。

 「遊ぶ暇もないんでしょ」とときどき心配されます。これは違うのです。みことばに耽っているわけでないので十分遊んでいます。長年勤めた神学校を退任し、二年前に北海道日高に赴任しました。ここではけっこう、「第二の聖書」とも言われる自然の中でアウトドアの生活を楽しんでいます。

 ワールド・カップ・サッカーのときには人一倍興奮しました。野球も、相撲も、そして日高にいると競馬までとても身近です。賭けるのではありませんがサラブレッドの見事な走りをよく見ています。視野が狭まるのではなく、すべての良いもの、うつくしいものに眼が開かれてゆくのです。

なにもそれほど読まなくても

 私は、月二回のペースで生涯に千回聖書通読をしようと励んでいます。「なにもそれほど読まなくても」とよく言われます。まったくその通りです。

 しかし、漫然と聖書に取り組んでいると、ついつい聖書を読まなくなるものです。牧師、CS教師、神学生のように強いられて読んでいる人でも、うっかりすると必要最低限、いやそれすらも読まなくなるのです。

 目標を決めても、しばしば挫折するのが聖書通読です。目標を決めなければ、もう世俗の流れに押されてしまうのは目に見えています。ですから、生涯千回とか、月二回とかではなくても、まずは手近かな目標を立てて、規則正しい通読の習慣を身につけることは、とてもとても、とても大切です。

 通読にこだわることはない、というのはもっともらしい意見です。でも、こだわるくらいでないと、人生万事、実現できません。自然の気持ちにまかせていたら祈れるようになった、ということは稀なことです。無理をしないで、ゆったりしていたら聖書が読めるようになった、ということも、たぶんないのです。

 通読は、おそらくとても大切なことなので、サタンはもっともらしい反対意見をクリスチャンに吹き込むのではないでしょうか。そんなにがんばるなよ、と。

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